2020年3月29日日曜日

東日本大震災を受けてのコメント2011

 2011年3月11日 14:46 に東日本大震災が発生しました.余りにも多くの命が失われた事に呆然とすると同時に,一瞬前まで夢に満ちあふれて幸福な日々を送っていた方々の,無念な気持ちを推し量る事もできません.亡くなられた方々のご冥福をお祈りし,被災された方々が一日も早い日常を回復されることを望む毎日です.このようなHPで書く言葉もありません.
 地震の前後で日本の多くの価値観が変化してしまいました.当然のことと思います.特に,直接に被災していない我々は,その後に発生した福島原子力発電所の状況およびその対策,さらに東北電力,東京電力の管内で発生した電力不足,そして,日本の脆弱な社会の露呈に直面しています.これらの状況は,今後の日本だけでなく世界の方向性を大きく決める議論の切っ掛けになるものと感じます.16年前に神戸の震災の後,関西から他の地域へ時間が経った後行った際に,ほとんど何も無かった様に日常が続き,政治も社会も鈍感な対応を続けた状況を目の当たりしました.今我々の側が,被災者から見られたらその状況にあるのであろうと思います.全ての事は映像ではなく現実であり,必要な事はその場でしか出来ません.従って,我々は本当に長期にわたってできることを意識して支援を行っていくことが必要だと思っています.神戸の震災の後の過渡状態にあったこれから世の中の支援が本格化しなければいけない時に,東京でサリン事件が起きてしまいました.そのことが報道,人々の意識から神戸のことを霞ませてしまった状況を見た覚えがあります.これと非常に似た問題の連鎖が今に有る様に思います.我々は,天災である震災の被災者への援助を続ける事が最も必要なことであり,興味にまかせた東京中心の報道に右往左往せず,その後の社会復興へ個人の利害と関係なく寄与して行く事が必要であると思います.
 本HPでは,今後時間を掛けながら,電気工学の研究者として説明すべきこと,システムの安定性から安全性への意識の変革,新しい技術が生み出す未来の形などを述べ,過去の延長ではないエネルギーに関連する研究への投資が今後の世界の中でもっとも重要であることなどを機会を捜して述べて行きたいと思います.
 これから社会を支えて行かなければならない若い人には,自分の成すべきこと,自分ができることを考え,日々その活動に対してまじめに取り組んでもらえれば大学の教育に携わるものとして幸いに思います.

システム論の前に (2011.4.24 暫定版)

ここでは 2011年3月11日の地震・津波による災害の規模やその被害を述べることが目的ではありません. 研究室への興味を持ってHPを訪ねた方に電気工学を専門とする者の理解を示し,今後の勉学の参考になればと考えています.
エネルギーシステムの分野にこれほどの研究者,企業,世界の注目が集まっている状況は,筆者の研究生活 (1980年代の大学での研究生活以後) の中で初めてでした.言い尽くされた様に,2008年のリーマンショック後の経済振興策としてアメリカのオバマ大統領のエネルギー政策にその端を発する.米国内の技術展開の提案,新しい成長分野への公共投資に多くの企業が集まりました.また欧州における環境意識と国策による環境ビジネスの高まりは,同じ方向を向いた公共投資を呼び込んでいます.これに合わせる様に,オイル資源国がその余剰資金が尽きないうちにエネルギー分野への投資を加速する状況も生まれ,世界の研究者が,言葉は悪いが猫も杓子も同じ方向を向いてしまった感がありました.そして,今回の東日本大震災が3月11日に発生しました.
昨今、意識の高い研究者、民間企業の開発が世界での研究の主導権を確保するためにスマートグリッドを中心とする研究開発の動きに敏感に,そして大きな方向性として対応していました.しかしながら日本の電力会社からなる業界は常に「日本の電力システムは既にスマートグリッドである」と主張し,「我が国のモデル」に価値があるとの認識を続けていたことをここで忘れてはなりません.ガラパゴスとしての特化と能力の一般性を混同し勘違いした認識ではなかったでしょうか.電気学会の大会,講演会を含め何度そのような発言を講演で聞き,新聞・雑誌で読んだか分かりません.特定の研究者グループの全国行脚の様な講演会,講習会があったことも新しい記憶にあります.それは本当であったか?この疑問に対して,当の講演者を含めて主張した研究者は,誰一人それに声明を出していません.特に学会で権威ある立場に有ったものとして、自ら精査し,率直に正しい研究の方向をを示すべきではないかと思います.また,電気学会も我が国で今回の一連の災害後の状況,引き続く原発事故による電力事情への対応に対して責任ある学会として,本来すべき説明や提案、さらには新しい方向性も出されていません.
加えて言えば,当学会の感度の悪さは,3月11日の震災後に大阪で16日から開催される予定であった全国大会を前日の夕方まで中止を決められなかったことにあると思います.本来関係者が全力を挙げて現状の危機回避に走らなければならないときに,二次災害、三次災害の対応当事者である企業人を含め,大学人が現場を忘れて実害の無い机上の絵空事の議論に集まることが何の意味を持つのか?これに対する疑問,正当な判断が無かったのであろうか?などの疑問が浮かばざるを得ません.もちろん判断は開催する場所が大阪であったことによる面が多いと思います.それは,如何に震災のリアリティが西日本に無かったかによるのかもしれません.その間に、福島では原子力発電所が致命的な状況に陥って行ったのは誰しもが知る所です.まず,学会としてすべきは,全会員に全力をあげて,自らの間違いを率直に認めた上で震災対応へ知恵を出し合うことを求める声明を出すべきではなかったかと思います.震災・津波は天災でした.しかし,その後に起きたことは天災ではありません.その当事者のいる学会であるという意識があるのかという思いがあります.少なくとも現在の発電および送電状況のデータを開示して電力会社が停電でしか対応できない現状に対して,即応して広く議論をするなどの行動ができなければ,今後この学会は特に電力分野に対して何の意見も正当性が得られないも団体に成り下がるのではないかと思います.後付けで安全な状況になってから調査研究する,意見するというのは今の時点ですべきことではありません.一方で, 所詮業界に対してその程度の力しかなければ,学会というものが単なる御用学会と再度言われても仕方がないでしょう.学問が安全な世界の戯言であるということをみずから認めたとき, 現実社会への責任放棄をしたことになり,平和な時を除けば存在価値が無くなると思います.現状の電力の学問は現場の経験則と方法論であり,学問のための学問ではないのですから.
我が国では電力分野の研究者は, 業界の主張に沿って電力供給側の立場で世界の電力システムの流れを見てきたと言えます.一方で,エネルギー問題に関して言えば通信分野や産業応用分野の研究者は,逆にユーザー側からの立場で研究を進めて来ています.しかしながら,業界の壁は大きいものです.電力業界は経産省,通信業界は総務省という縦割りの業界間の意識と権限は、所詮越える事は不可能というのが過去の歴史であります.これを越えることができるのでしょうか.今回の震災は日本のこれまでの社会の価値観,人の人生観を覆すものであったことは間違いありません.その中で、国費や権限の奪い合い後しか思えない動きも目につきます.それらに関係なくアカデミアが,震災復興の研究費確保に目のくらんだ会合を浅ましい下心を持って行うのではなく,純粋に正しい理念と方向性を正義を持って示さなければ、学問を生業とする人として存在価値がないのではないかと思います.表ではきれいごとを言っても,本質を知らない素人集団が暗躍する現状に対して,やはり学会を中心とする集団がきちんと対処する姿を示してほしいというのが私の強い気持ちです.
先日、某新聞の知己の記者に今回の電力関連の問題に対するこれまでの記事の問題を問いただした所,電力システムの安定性に対する認識は盲点であったといった返答がありました.これは,単に専門家と称する業界の主張をそのまま受け入れて来たに過ぎず,新聞も公衆を間違って誘導する大きな力には逆らえなかったということであり,それにあらがうことは難しいのでしょう.
さて,我々が何をすることができるか,これから少しずつ考えて行きたいと思っています.

なぜ60Hzの発電機が50Hzで使えないの? (暫定) 

こんなあたりまえの質問に,この2ヶ月だれも真面目に答えていないと思っています.またなぜ50Hzの領域に60Hzの交流を供給できないのかということを,今のシステムの維持や手法の問題ではなく物理として説明した記事や,解説を見た事がありあせん.上記の質問は,震災の後外部から電話で受けたものです.「もし混ぜたら何が起こるのですか?」と疑問をもつ方も多い様です.なんだか専門家と称する人が言ってるから無理なのだろうと思って考えない人が多いと思います.さすがに理系の人には混ぜたら問題という事ぐらいは分かっていると思いますが,それは利用者としての意識での理解です.
今のシステム・機器の設計時の前提がいつのまにか物理的原因と勘違いされて説明されているのが現状です.多くの電力会社の責任のある技術者はおそらく私と同じ世代ですから,大学で習った電力技術がどういうものであったかよくわかります.なぜかわからにけれど,たとえば発電機を海外から日本に輸入した時にそうなっていた,というものです.ご多分に漏れず明治維新後の日本の技術はコピーによって安く同じものを作るということでした(今我が国がアジアの国にクレームを出していますが,それは日本がそういう成功したビジネスモデルでのし上がったことを知っているそれらの国に,お前に言われる筋合いは無いということになるのではないでしょうか?).完成して輸入された製品を企業が分解してまねをする・・・なぜか分からないがコピーして作る時のノウハウとして残し,いろいろな設計時のパラメータがなんだかわけのわからないままに「XX係数」「YY度」といった計算上のまじないのように与えられまさした.こんなものが学問であるとはとても言えません.なぜなら物理がどこにも無いからです.工学は経験則の集約です.しかしその依るものは物理・化学で合理的に説明されなければなりません.そうすることで異なる容量,定格においても,スケール則が成立することから設計が可能になるのです.しかしながら,上述した分からない係数や設計パターンを多く知っている人がいわゆる専門家であり,それを超えて要求に応えられることが必要であったのです.従って.その人には何も合理的な説明できません.回っている発電機の多くでは,何故かわからないが適切と考えられるパラメータを設計に使ったものが多く有ります.これは多くの古典的なモータでも同様です.もちろん別の方法で理由はつけられています.
理想的な発電機であれば,物理的にはどちらの周波数も発電できます.できないのは,その設計製作に当たって,元々の分からないまま導入した原理に,後付けで効率が良くなる様に最適化した材料,係数の補正,さらには構造を積み込んで来たことで,前提とする機能保証が何も無くなるということに因るのです.その結果,機械的な破壊に至るか否かはやってみないと分かりません.今ではシミュレーションで多くの検討がなされていて問題が無いと考えられるかもしれませんが,もともとの検討項目が過去のノウハウであるに過ぎませんから,検討していない事象で何が生じるかは,その連成系としてのモデルが正しく無ければ意味をなしません.ですからシミュレーションも結局は過去に設計製作したものが考えられる範囲では問題ないという事しか言えないのです.定格という設計のための基準値に1.5倍の余裕を与える・・・なぜでしょうか? 想定がどこにあるのでしょうか?
要するに,そういうふうに作っていない・・・としか言えないということです.たとえばタービン発電機の様な長軸の回転機は,低い周波数で負荷を持って運転するとそこに共振周波数があって破壊するということなどがあり得ると予測できます.それは正しいものです.しかし,水力発電機には当てはまりません.即ち,できないというのは電気の60Hz, 50Hz の問題ではなく,どの周波数で発電継続するための設計をしたかによるということに過ぎません.このことを説明も無くあたかも理論の様にうやむやにし,根本の問題を理解していないのが現状だと言えます.原点に戻ってなぜということを経ていない技術は,その設定外で運用する時に何も保証されないということを理解する必要があります.安ければ・・・ということが生む結末は理由の無い妄信です.
さてさて,もう少し技術的な議論はできないでしょうか?

意外に(?) 弱かったエネルギーシステム 

東京電力の計画停電の話が出た頃,ある会議で某教授が「電力システムは意外に脆弱だったのですね」とおっしゃったことが記憶が残っています.問題点がシステム自身にあるのか,それとも人に有るのか,それらを全て含めてか・・・いずれにせよ契約者の誰に取っても電力システムであり得なくなったということは非常に重い結果でした.(電気事業法 第18条1項 参照)
教科書等で学習するシステムは,「無限大母線」という容量が無限大,慣性が無限大の発電機があり,個々の発電機の特性はその無限大母線という基準をもった一自由度の系です.つまり,絶対的な基準点と支えのある系として学習しています.この系の個々の動作は機械入力と電気出力のつりあいによってまず考え(平衡状態),もし何かが原因でその釣り合いが外れても(脱調,トリップ),無限大母線はびくともせずに対象の発電機だけのダイナミクス(過渡状態)を見れば良いということになります.相手が剛であれば引っ張っても押しても手応えがあり,それに応じて手加減ができますが,相手が柔であるとき,どこまで引っ張って良いのか,このまま押して良いのか?自分の手応えからは決められないと言えばわかるでしょうか.それでも留まっている時はそれなりに釣り合ってバランスを取ることができます.学生の頃,複数の同期発電機(電力システムの大多数の発電機)を連系(電力分野ではこの漢字を使う慣習があります)することを幾度となく繰り返して実験を行った経験から,こんな「ふにゃふにゃのシステム」の状態を維持することはそう簡単なものではない,ということを身を持ってしりました.その通りなのです.
さて,東日本大震災の直後の過渡状態でも発電機,システムの制御系は,立派に働いたと言えます.これは発電機の運動方程式が維持されたと言えます.電力システムが維持できなくなったのは,その前提となる負荷が要求する電力と発電可能な電力の量が乖離して解が無くなったためです.要するに,システムの前提が成立しないため,送電を切るしか送電の関係を構築できないということになります.これは,大容量の電源が消失するという中で,個々の負荷を供給側は制御する方法を持っていないために,そのやり取りを動的に開始する事が出来ないという結果に,電力会社として初めて直面したと言えます.供給能力が無くなった結果,もしそこで運転を継続したら生き残った発電機は脱調し,同期して電力を送るとが出来ないため,全システムを停止状態にするしか無くなるということを避けねばならないと考えたとき,停電を要求しなくてはならなくなってしまいました.
発電機から見た負荷に優劣や尊卑はありません.送電線路の向こう側にある見えない負荷のために,一様に可能な限り電力を送るのが電力会社の義務であり性です.それが技術者として電力会社に居る人の真面目な姿です.しかし,そのエネルギー単位の力学とその制御が,人,円,時間という経営の単位になることは民間会社としては致し方有りません.しかしその収益率を上げるためのシステムのスリム化が力学としてのシステムを脆弱なものにしたということであったら,「意外に・・・」というのではなく「起こるべくして起きた・・・」という表現にならざるを得ません.
電力システムは,設定した条件において想定される外乱が加わっても,入出力間の平衡を保ち,漸近的に安定になるように設計されてきました.我が国の電力システムが,震災の前までは安定したスマートなシステムだと言われて来ました.それが崩壊するとはだれも思っていなかったのでしょう.それは前提条件が失われないという限りにおいてである事を,我が国の一般の方が恐らく初めて知ることになりました.電力は,発電電力の余裕を持って,バックアップのルートを維持してシステムを維持しなければ送電できる状況を維持できない.ポテンシャルの高い方から低い方へ移動する電力が,遠方にある巨大発電所の大きな慣性を持った発電機の高いポテンシャルから運ばれなければならないという必然性は,物理ではなく,事業としての論理であるということを気づいた今,それを維持する事は今はあり得ても将来も許されるのかという問いに,我々はどう応えていくことができるのでしょうか?
電力システムは人の生命の維持に不可欠なシステムとなっています.水,空気,そして電力です.衣食住と安全を維持するために今は電力が無ければならないにもかかわらず,システムとしての安定性を安全性という観点で補強してこなかったことが,脆弱なシステムにつながったと考えられます.水の供給系も同様です.いずれ,電力が無ければ空気を維持できない状況がくるでしょう.そのときのためにも,今考えなければならない大きな課題です.最悪を避けるシナリオの確認,起こりえないという思いとは別に可能な対策を準備し,それでも対応できないことが生じる可能性とリスクを評価することが,我々が唯一できる技術的アプローチである事を,真面目に考えなければならない.
今,「安心・安全」を担保する事が役人の口癖になっています.「安心」は人の気持ち,「安全」は客観的な事実として同一視しないことが重要だと思います.(公的な会見で「ご心配をおかけして申し訳ありません」という表現が最近よく使われます.相手を思って言うのではなく自分のことに使っている場面が多く有ります.意識の倒錯があるように思います.)

技術の発展には必然性がある?(暫定版)

原子力災害の対策にロボットを開発したが廃棄した・・・という事実が紹介されています.が,平和ぼけと予算消化が命の官僚主義の成せる結果ではないかと思います.国の補助金で製作されたものは,助成期間が過ぎると引き継ぐことが出来ず,廃棄すなわち取り壊すことが決まりです.それは資産になってはいけないし,売却益を得てはいけないからです.大学もしくは国研だけが引き続き使用ができます.それが国民の税金をつぎ込んだということで,個人の有利になってはいけないという最低限 (?) のルールについて守っていますが,税金が無駄に消えているということへの何の説明にもなっていません.そういう論理のすり替えが非常にたくさんあります.研究は国民に資するものですが,その結果はいつ開花するかはわからないということが理解されていません.その余裕が科学,技術の懐の広さや深さを与え,いざというときにあらゆる可能性を検証する有機的な考え方を生み出すものだということは誰でも分かります.そういういざという時に応えるために準備させるのが税金の投資なのではないかと思います.しかし,市場経済の論理を研究に持ち込むという蛮行がまかり通る様になり,即効性と結果が要求され,望ましい結果を求めてはいないにしても,基礎研究に対して都合が悪い結果は出さないということがなされます.研究成果の全ての条件と結果を提示して,失敗を大きな成果として,後進のために正直に報告する.これが科学で基本です.それが発展につながるのです.その下住みの研究を無くしてどんな研究開発をしても,それはやってみましたということにしかなりません.開発した装置を他の検証を得ないうちに解体して処分する.こんな結果を真面目に信じることができるでしょうか?「捏造」ぎりぎりの行為です.論文になれば良い? いえ,なったら一生その責任を背負わないといけないのです.その答えがいつでも再現できなければならないということの責任は非常に重いものです.ましてや国民の血税で研究をさせて頂く我々に取って,評価を受ける義務の遂行は最低限まもらなければならないことです.
国による大学の研究費は,予算の単年度消化ルールのコントロール下にあります.大学が受ける助成金は予算の執行は毎年7月から9月に行われ,2月末には研究成果を示さなければならないことを繰り返します.その結果,双方の予定調和として既に結果が明らかなものを申請し,成果がでないうちに過去の成果で報告し,その達成を競わねばならない.こんなことを繰り返すから税金をつぎ込んでも成果が出ないのです.費用対効果という意味では,お金をつぎ込まない挑戦的な研究を自前で実施したとき程成果が出てくることになります.多くは,助成金が得られる様になった時点で成果は出終わっています.こんなことなら,過去の成果への補填として助成金を充当すれば良いのではないかと思うくらいです.これが技術を推進することになるとは思えません.政府の競争的資金と言いますが,ほとんどは募集時にほとんどの応募者が決められていて,それ以外は当て馬です.当て馬の申請を落とす事が審査の本質であることは必然です.このうようなことは我が国だけではありません.要するに研究はその時々の政治,流行に従って助成金によって誘導されていると言えます.結局は既得権益なのです.しかし,科学,技術の発展において予算の有無は,必然的な発展において雑音にすぎません.その時代に数々のノイズ的な外力があったとしても,必然的な知見は,世界で同時多発的に現れるということです.それに気がつくかつかないで結果的に市場を形成するか否かにつながります.予算を継続的に,カンフル剤の様に注入しても市場等は形成できません.必然性が無いからです.だからこそ,研究に市場メカニズムを持ち込むことなど元々言い訳に過ぎないという事です.
技術の発展には必然性があるかという問いがあったら,あるというのが著者の回答です.精度を上げる研究が必要な時もあります.そして,異なる分野が再度融合する時も有ります.それを融合させるのは人ですが,その潮が満ちた様に知見が高まる時があります.それは個人に依存もしますが,今回の震災の様な外的なトリガによる場合もあります.その中で,何が本物かということを見出せる能力が必要です.机上の空論は権威を維持するために理論武装します.そのことが,障壁になることもあります.一方で客観的に応用や具体化まで見通していけなければその潮の流れからは取り残されます.次のタイミングはないでしょう.それらも,結局最後に流れが出来なかった時に「あ,障壁を越えるだけの成熟が無かったのだ」と気がつくものです.一方,教育も面白いものです.なぜあのときあの内容を学習することになったのかと思う程,今の仕事の本質を突いた刺激を受けた事を後で気がつくことがあります.それらが一人の中で結晶化するというのは,その人に取って必然です.ですから,発展させる技術を引き出す人は,その生涯で必然として辿り着き発展させるのだろうと思います.他の人にはできないのは必然がないからです.教えた側が今の結実を知っていた訳でもありません.
総体として,技術の発展は必然性があります.そのときまでの多くの失敗のデータ,検討のデータ,机上の空論と捨てられたもの,過去には技術が伴わず捨てられたもの,それらがあってこそ次の発展につながることを,科学技術に頼ろうとするものは知らなければなりません.成功はその蓄積の中から選ばれた人が拾い上げて来るものです.どんな些細な発展にも必然性があります.だから,良い結果も悪い結果もきちんと目の前に出して評価して次に行く行動を我々科学技術に携わるものが行わなければならないのだと言えます.それを止めたとき必然性は生まれません.
当たり前のことしか書いていません.しかし今の世の中を見て下さい.どうなっているでしょうか? 何かを守ろうとして,何かを決定して実施し,それが多くの人の命と引き換えになった過程があったとしたら,絶対に結果と言ってはいけないものです.この結果を導かない様に責任を持たされ,地位や利益を得ることが許されたのだと思います.人の営みとして既に走り出したものを止める事はほとんど不可能です.しかしそのことが結果を正当化することはありません.いまできることは,反対の意見を消した意見の評価,そしてその方法論,さらには決定者の責任について,歴史の経験を見返しながらどうすることが正義かを考え抜かねばなりません.人に責任を問うのではなく,そのプロセスを問わねばなりません.これが必然となって新しいレベルに社会や技術を持ち上げることが今唯一意義がある行為であり,その結果新しい技術を生むのであれば,過去の成果によって繁栄を享受することを許される唯一の道であろうと思います.
技術は社会が必然的に生み出す道具なのでしょう.それが社会に取って,良いものでも悪いものでも.そこに今は科学の論理による正当性がなければならないというのが重要なポイントです.

行かなければわからない現実 

タイトルが全てです.それ以上の言葉は無いと思います.




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