2020年3月29日日曜日

年初の挨拶2004年版

おそらくこのページをご覧になる方は,他の研究室では何をしているのだろう,自分の研究分野をどこにすればよいのだろう,といった意味で参考になるものを探しておられるものと思います.これに関して,私見を述べます.

 学生のみならず,多くの研究者の方々は,今世の中でもてはやされているテーマ,良く聞くキーワードを含む分野を研究テーマとして行きたいと考えられる方が多いと思います.言うまでもなくそれは既に完成されたテーマであり,勉強を始めた時点の流行のものの見方では,すでに終わったといえるかもしれません.研究者,技術者として第一線に立つまで5年以上の時間的経過が必要であることを考えますと,世の中の興味は大きく変わってしまうことを良く理解しておかれるべきでしょう.もしそのテーマを選ぶとすれば,基礎からもう一度テーマを洗いなおす覚悟を決めて,挑んでいかれるべきでしょう.
 肝心なことは,テーマの流行ではなく,その分野でのアプローチをどのように学習するかです. 多くの場合卒論は,与えられたテーマに対して手法の提示を受け,いかにアプローチするかを 学びます.演習といっても良いかと思います.この時点で研究室や大学を替わる人がいます. そういう人も,すでに卒論の訓練を受けているので,研究室から大学院へ行く人と同様の 訓練を受けていると考えてよいと思います.但し,使う用語や手法の違いが基礎からの勉強を 必要とします.修士課程は,与えられた目標に対して,提示された複数の手法から 自らその適切なものを選択し,どのようにすればその目標に肉薄できるかを 訓練する過程と考えられます.そして,博士課程は,その目標自体を自ら設定し,手法の検討 の下に成果を世に問う訓練をする過程と考えます.それぞれの過程に不可欠な訓練があり,それを 一足飛びに卓越した成果を得,世の中の評価を受けることはなかなか難しいものです. 従って,自らのモチベーションが途絶えない分野で研究開発をすることが最も重要なことだと 思います.そして研究者としては,最終段階で対外的に自ら奉仕し,他による認知 を得ていくことも重要です.最も忌み嫌うべき行動は,どこかに何か面白いことはないかと,視点が定まらないまま次から次へと流行のテーマを渡り歩いたり,人のテーマに飛びついてしまうことです.
 一度ひとつの分野で先端まで出ると,他の分野への洞察も可能になります.その結果,研究の幅を横に広げ,これまでにやってみたいと思ったテーマにまで挑むすることが可能になります.それは一番重要なことであり,次の世代のテーマを構築するのはこういう研究活動であるとも言えます.研究で重要なことは,先生,先輩,他の研究室の人,学外の方と議論することです.そういう環境でこそ新しいものが生まれていきます.どの研究室も日々同じ状態に留まっているようなものではありません.常にアクティブに動いています.そういう活動を通して研究を見られることを希望します.また,人のテーマは良く見えます.論文がたくさん出版できるテーマは研究者として生き始めた者にはうらやましく思えます.でもそれは研究テーマの本質とは何ら関係はありません.一生のテーマとできる課題を見つけたことを幸せに思うことも重要です.
 さて,工学部の研究は得てして応用研究と考えられています.しかし,最終結果が応用かもしれませんが,その対象は自然現象の制御であったり,脳や生体機能の模擬であったり,複雑な人工システムの設計や制御であったりします.それらは,18世紀,19世紀には森や川のように人間の周囲にあった自然と同じように,人間の関わる環境なのです.その現象や環境をSicence の観点で見つめなおすことが最も重要なことです.前世紀の終りまで,人間の扱える知識と能力は平衡点の周辺の分かり易い現象に限られてきました.さらに大域的な空間にまで理解を広げることが必要とされています.その中で,新たなモデルを見出し,再び人間のコントロール化に復させるEngineering Scienceを目指すことは,工学の本質的に取るべき方向だと思います.

年初の挨拶2005年版

<工学部電気電子工学科の研究室配属に関連して>
 京都大学工学部電気電子工学科の配属研究室の一つとして,学部生の特別研究テーマを提供し,指導をしています(以下特別研究を卒業研究と呼びます).従来卒業研究を研究の一貫として考え,各自の興味を考慮してテーマを決定してきました.しかしながら,最近の四回生の基礎能力不足の状況はこれを危うくしています.電気電子工学関連の基礎科目に関する知識不足は後で補うことは可能ですが,数学,物理,および一般教養と呼ばれる技術者および研究者としての資質のバックグラウンドとなる自然科学的教養,さらには論理的思考能力,作文能力は四回生の時点で修得するには遅すぎるものだと考えられます.それにもかかわらず,自分にその能力が不足していることを自覚せずにいる方が非常に多く,研究室配属後その指導のためにかなりの精神力と体力を持って対応せざるを得ない状況となっています.
 大学生の学力不足が叫ばれはじめてから久しいですが,工学部ではその対応を京都大学の教育の伝統である自学自習で補わせています.それは京都大学が自らの指導を放棄しているのではなく,それを自ら修得する人のみを研究の後継者として認知することを歴史的に続け,それが最も良い方法であったからです.学生に迎合することでその手法を放棄したとき,京都大学は研究大学としての存在を失うことになります.しかしながら現実にはその自学自習をどうすればよいか分からない人が多く,指導を求める声が強くなっていることも事実です.その主たる原因は,大学以前に教育指導要領の改訂に続く改定で基礎学力不足となっている状況と,高校を含めた受験産業の隆盛によるテクニックのみの知識の詰め込み,そして幼少期からの生活を通した観察に基づく科学経験の不足にあると考えられます.このような大学における指導に不満をもつのみの方は,残念ながら研究という知的活動に適合する準備が全くできていないことを自覚していただきたいと思います.
 研究者,技術者としての専門教育の講義を受けた現時点で,卒業研究は研究へのモチベーションに基づきその切欠をつかむ最後の機会です.与えられたものをこなす受験の能力の延長では,京都大学の卒業生としては充分ではないことを理解してほしいと思います.その上で自分に足りない能力を補い,さらには研究のモチベーションを維持できる研究テーマと指導者を選択するよう心がけて下さい.

<大学院での研究について>
 学生のみならず多くの研究者の方々は,今世の中でもてはやされているテーマ,良く聞くキーワードを含む分野を研究テーマとして行きたいと考えられる方が多いと思います.言うまでもなくそれは既に完成されたテーマであり,勉強を始めた時点の流行のものの見方では,すでに終わったといえるかもしれません.研究者,技術者として第一線に立つまで5年以上の時間的経過が必要であることを考えますと,世の中の興味は大きく変わってしまうことを良く理解しておかれるべきでしょう.もしそのテーマを選ぶとすれば,基礎からもう一度テーマを洗いなおす覚悟を決めて,挑む必要があります.
 私が学生のときK教授から次のような言葉を頂きました."研究の遂行に当たって,みんなが前を向いているときには後ろを向いて走りなさい.みんながあれっと思って振り返り,そして追いついて来た時には90度方向を変えなさい." このように研究の先頭を維持していくには広い教養が不可欠だと思います.基礎から,原点から全ての研究を洗いなおす余裕のある研究分野を私は選んできました.そして可能な限り配属された学生の方には,そのような研究の遂行を希望しています.そういう時,よく専門家と称する方は それは何に役に立つのか?と問い掛けます.この問いかけは実学の中では大切なものです.しかし萎縮してはいけません.この問いかけは京都大学が求めてきた研究の姿勢とは異なっています.すなわち今の実学への益の有無とその形態を維持する活動で京都大学がその存在をアピールしてきたのではありません.既存の知識の基礎の上に,総合的な知識の再構築に基づく新しい学問・応用分野の創出を本務として来たのです.
 さて,肝心なことは,テーマの流行ではなく,その分野でのアプローチをどのように学習するかです. 多くの場合卒業研究は,与えられたテーマに対して手法の提示を受け,いかにアプローチするかを 学び,演習することです.この時点で研究室や大学を替わる人がいます. そういう人も,すでに卒論の訓練を受けていると考えます.修士課程は与えられた目標に対して,提示された複数の手法から 自らその適切なものを選択し,どのようにすればその目標に肉薄できるかを 訓練する過程と考えられます.そして,博士課程は,その目標自体を自ら設定し,手法の検討 の下に成果を世に問う訓練をする過程と考えます.それぞれの過程に不可欠な訓練があり,それを 一足飛びに卓越した成果を得,世の中の評価を受けることは不可能です. 上述したように自らのモチベーションが途絶えない分野で研究開発をすることが最も重要なことだと 思います.そして研究者として,最終段階で対外的に自ら奉仕し,他による認知 を得ていくことも重要です.最も忌み嫌うべき行動は,どこかに何か面白いことはないかと,視点が定まらないまま次から次へと流行のテーマを渡り歩いたり,人のテーマに飛びついてしまうことです.大学院の指導のもとで,こういった研究の態度・倫理を学習することを希望します.

<研究について(その2)>
 一度ひとつの分野で先端まで出ると,他の分野への洞察も可能になります.その結果,研究の幅を横に広げ,これまでにやってみたいと思ったテーマにまで挑むことが可能になります.それは一番重要なことであり,次の世代のテーマを構築するのはこういう境界を拡張する研究活動です.さらに重要なことは,先生,先輩,他の研究室の人,学外の方と議論することです.そういう環境でこそ新しいものが生まれていきます.どの研究室も日々同じ状態に留まっているようなものではありません.常にアクティブに動いています.そういう活動を通して研究を見られることを希望します.また,人のテーマは良く見えます.論文がたくさん出版できるテーマは研究者として生き始めた者にはうらやましく思えます.でもそれは研究テーマの本質とは何ら関係はありません.一生のテーマとできる課題を見つけたことを幸せに思うことも重要です.同時に既存の分野を基礎から検討しなおすことは,新しい分野の創生につながることも頭の隅に置いておいてください.
 さて,工学部の研究は得てして応用研究と考えられています.しかし,最終結果が応用かもしれませんが,その対象は自然現象の制御であったり,脳や生体機能の模擬であったり,複雑な人工システムの設計や制御であったりします.それらは,18世紀,19世紀には森や川のように人間の周囲にあった自然と同じように,人間の関わる環境なのです.その現象や環境を Science の観点で見つめなおすことが最も重要なことです.前世紀の終りまで,人間の扱える知識と能力は平衡点の周辺の分かり易い現象に限られてきました.さらに大域的な空間にまで理解を広げることが必要とされています.その中で,新たなモデルを見出し,再び人間のコントロール下に復させるEngineering Scienceを目指すことは,工学の本質的に取るべき方向だと思います.

<大学院での研究室選択について>
 大学院での研究室の選択は,研究の指導者の選択に通じます.自らその考えに共鳴することができる,あるいはその考えに反論することで新しい分野を構築するに足る相手であるべきだと思います.私は配属された学生に自分の手足を求めることはありません.共同研究者に足る資質を示し,よき研究のパートナーになって頂くために全身全霊で向かっていきます.そして大学を卒業した社会人と同じ年齢である以上,義務と責務を守った態度を求めています.私どもの研究室は,この点を前提に選択をしていただきたいと思います.  我々の研究テーマは Engineering Science であり,主として非線形力学の工学的応用です.その実現がパワーエレクトロニクス,電力工学,磁気浮上,ハイブリッド系,電磁機械系など多岐に及びますが,基本的には従来の工学システムの線形の枠組みを拡張して新しい電気工学の分野の開拓を目指しています.前例のないテーマになるケースがあり,多くの学生の方には実験システムの開発,システムのモデル化から制御まで幅広い検討を求めています.研究室を選択される場合は,少なくとも非線形力学への興味,制御の実験的展開,電気エネルギー分野への興味などが望まれます.指導者の研究については,それぞれの論文リストから適当なものをダウンロードして読んでいただくことを希望します.そして,我々の考えを理解いただければと思います.
 なお,いくつかの書籍は,研究の遂行上必要と考えています.可能な限り自ら学習していただきたいと思います.

年初の挨拶2006年版

 研究室選択の一助としてこのホームページをご覧になる方に対して,研究室の指導に関連して本年も私見をまとめてみました.賛否両論有ると思いますが,あえて公開します.

<電気電子工学実験・実習から研究へ>
 京都大学工学部電気電子工学科の研究室配属は,現在電気電子工学科の専門科目および全学共通科目で学生が取得した成績と本人の希望に基づいて決定されて います.2003年までは,学生の皆さんの協議でその方法が決定されてきました.どの方法を取っても,その結果に不満があることは避けれませんが,現状に ついては今後,その結果にもとづいて評価される必要があると思います.
 さて,電気電子工学科の学生が特別研究(卒業研究)に至る前に唯一の必修として電気電子工学実験,実習があります.皆さんが4回生になられたとき, はじめて個人の総合的な能力を問われることになりますが,電気電子工学実験,実習における実験,レポートの繰り返しに対して,いかに真剣にあるいは素直に 学習してこられた(こられなかった)か,如実に現れるといっても過言ではないかと思っています. 残念ながら,現状では多くの方はルーチンをこなすことに徹してこられたためか,それぞれのテーマに対して求められた物理的現象に対する考察 が十分ではないことが多いようです.メインレポーターであるときは,データに対する真摯な検討を訓練する機会を与えられたと考え作業から実験の精度や手法 を検討しながら考察しますが,サブレポーターの時はデータの定性的な特徴から物理的な洞察を行うことになります.しかしながら,現状はどうでしょうか?サ ブレポーターはレポートが休みと考え,実験の作業者に徹しているのではないでしょうか?現在社会人となった先輩方といえども,求められていることを実行で きたわけではありません.しかしながら,重要なことはそういう実験に対して自分なりに何らかを経験し,現象に対する記憶を残すことであると思います.
 情報系,物性系,システム・エネルギー系,・・・それぞれ自分の将来像を描いて勉強し,研究に従事することを希望して学年を進めてこられた4回生は,そ の研究室,研究テーマの選択が将来を決める重要な分岐点となることは言うまでもありません.その希望が叶わないときに皆さんはどうされるでしょうか? 失 望してあきらめる? 妥協して希望を修正する? 人間いたるところ青山・・・として自らを律する? 最後のような学生は最近では少なくなっています.私 は,決して自分の希望を捨てる必要はないと考えます.所詮卒業研究の研究室,テーマ選びにすぎません.自分の電気電子系としての感性を磨き上げるのはどの テーマでも,遜色はないのではないでしょうか? 卒業研究として設定されたテーマに対して,自分がどのようにアプローチできたか,その達成度を自らに問う ことが最も重要なことと考えます.そして,大学院において,あらたな研究室を選ぶことも可能ですし,就職において希望通りの研究に着手することも可能で す.重要なことは,自分の専門能力の幅をどれほど深く,広くするかにあると思います.この点を忘れて,テーマの表面的な人気やはやりで選択をされているこ とはないでしょうか? その結果確かにボキャブラリーとしてその分野に知見を持ったように見えるかもしれませんが,その実何も身についていないことはない でしょうか? 私は,研究者,技術者として大切なことは実験で身に付いた と自分で言えない人は,もう一度,電気電子工学実験・実習とは何であったかを考 えて見られることを希望します.そして,自分の本来の目的・希望に肉薄して行くだけの頑迷な意思を実現して頂きたいと常々思っています.
 最近の四回生の基礎能力不足の状況は目に余るものがあります.電気電子工学関連の基礎科目に関する知識不足は後で補うことは可能ですが,数学,物理,お よび一般教養と呼ばれる技術者および研究者としての資質のバックグラウンドとなる自然科学的教養,さらには論理的思考能力,作文能力は4回生の時点でも, 不十分です.問題は,自分にその能力が不足していることを自覚せずにいる方が多く,研究室配属後その指導のためにかなりの精神力と体力を持って対応せざる を得ない状況となっています.4回生までとそれ以降の勉強で根本的に異なることは,4回生までは無目的の勉強であり,それ以後は合目的な勉強です.理解は 後者が進みます.ところが,新しい現象,テーマに対応できる能力は,前者に基づきます.それを自覚できるのは,博士課程に進学したとき,会社で研究推進を 担当することになったとき等々です.
 4回生の人に申し上げたいことは,自分の将来の希望があるのであれば,4回生までにご自分の幅と深さを意識されることだと思います.自覚して足 りないことがわかれば,自ずと自分が行うべきことは明快です.大学受験まで身に付いた要領の良い勉強を続けている限りは,その先に希望はありません.なぜ なら,学習でない研究に要領は通じないからです.

<研究テーマの創出ついて>  
 研究テーマをどうやって見いだすのか? 教員となった研究者でもこれがわからない方が多いようです.博士を持っていても,自らテーマが創出でき ない『ドクター・ストップ』状態の方が多いのも事実です.テーマは,身の回りに有るというのは言い過ぎかもしれませんが,工学分野であれば,従来の技術が どういう物理に基づいているかの精査を行えば,その応用展開や類型への展開は可能であろうと思います.そういう,水平展開の研究は工学では常套手段です. ところが,現在,大学でも社会でもオリジナルな研究を求めすぎています.オリジナルとは何でしょうか? 社会基盤を変えるほどのオリジナルな研究は,どこ から生まれるのでしょうか? 過去のオリジナルな研究の精査なくして,本当にオリジナルが何かわかるとは思えませんしまたオリジナル性の評価ができるとは 思えません.その研究分野の本質的な研究成果をくまなく調べることは,研究者として必須の活動です.そして,古典的な研究が理解された後,今はやっている 内容に対してその仮定,結論の限界を見極めることだと思います.いかがでしょうか?
 さて,肝心なことは,テーマの流行ではなく,その分野でのアプローチをどのように学習するかです.多くの場合卒業研究は,与えられたテーマに対して手法 の提示を受け,いかにアプローチするかを学び,演習することです.修士課程は与えられた目標に対して,提示された複数の手法から自らその適切なものを選択 し,どのようにすればその目標に肉薄できるかを 訓練する過程と考えています.論証は重要です.自らがアプローチしているテーマに対して,論理的に矛盾のない議論を組み立てる能力をどのように構築するか が重要です.作業仮説の検証ということを言う方がありますが,それは適当ではありません.なぜなら対象の本質を知らないときに作業仮説が立てられるはずは ないのです.あるのは,すべてをくまなく検討する作業とそれに基づく論証です.そして,博士課程は,その目標自体を自ら設定し,手法の検討の下に成果を世 に問う訓練を行います.それぞれの過程に不可欠な訓練があり,それを一足飛びに卓越した成果を得,世の中の評価を受けることは不可能です. 上述したように自らの希望分野で研究開発をすることが最も重要なことだと思います.そして研究者として,最終段階で対外的に自ら奉仕し,他による認知を得 ていくことも重要です.最も忌み嫌うべき行動は,どこかに何か面白いことはないかと,視点が定まらないまま次から次へと流行のテーマを渡り歩いたり,人の テーマに飛びついてしまうことです.学部・大学院の研究指導のもとで,こういった研究の態度・倫理を学習することを希望します.

<研究者とは>  
 研究者とは何でしょうか? 京都大学の理科系に進学した方ならば少なからず有名な賞を受賞した研究者にあこがれを抱いて自分の勉強を続けた方が多いと思 います.私もそうです.百万遍の古本屋で福井謙一先生と同じ場所に居合わせて同じ棚を見ていた自分,友人の結婚式で挨拶をたのまれ,そこにおられた有名な 先生に失笑を買ったものの暖かい笑顔の思い出,それらは逆に自分をそこまで持って行きたいというモチベーションになったと思います.どの先生方も,決して その業績にたいして奢らず,初学者の学生に対して真摯に教育してくださったと思います.教育とはそういうものだと思います.京都大学は,On Research Training を実行してきた大学です.その Research は,それぞれ本当に世界に第一線にあると思います.ただ,自分の興味とそれらが一致するチャンスは限られています.先に述べたように,自分の希望(先入 観)にとらわれて生きることも重要ですが,そういうチャンスをものにするために自らの感性を磨くことも重要なことだと思います.大学では,研究者は企業人 ではなく教育者です.教育の中で研究を育み,研究の中で教育を実行する,これを忘れた大学が多すぎるのではないかと思います.京都大学で研究を始めたみな さんは,その点を決して忘れないようにして頂きたいと思います.

<大学院での研究室選択について>  
 大学院での研究室の選択は,研究の指導者の選択に通じます.自らその考えに共鳴することができる,あるいはその考えに反論することで新しい分野 を構築するに足る相手であるべきだと思います.私は配属された学生に自分の手足を求めることはありません.共同研究者に足る資質を示し,よき研究のパート ナーになって頂くために全身全霊で向かっていきます.そして大学を卒業した社会人と同じ年齢である以上,義務と責務を守った態度を求めています.私どもの 研究室は,この点を前提に選択をしていただきたいと思います.
 我々の研究テーマは Engineering Science であり,主として非線形力学の工学的応用です.その実現がパワーエレクトロニクス,電力システム工学,ハイブリッド,電磁機械系など多岐に展開されます が,基本的には従来の工学システムの線形の枠組みを拡張して新しい電気工学の分野の開拓を目指しています.前例のないテーマになるケースがあり,多くの学 生の方には実験システムの開発,システムのモデル化から制御まで幅広い検討を求めています.研究室を選択される場合は,少なくとも非線形力学への興味,制 御の実験的展開,電力工学への興味などが望まれます.指導者の研究については,それぞれの論文リストから適当なものをダウンロードして読んでいただくこと を希望します.そして,我々の考えを理解いただければと思います.    

年初の挨拶2007年版

1.研究室配属について 

3回生後期になるとそろそろ自分がどういう研究室に配属され,どういう研究を進めることができるかを考え始める頃だと思います.自分が電気電子工学科に進学したときに持っていた夢と現在の希望は異なっているかもしれませんし,そのまま夢を追い求めている方もいるでしょう.ここ2年間,1回生の電気電子工学概論でイントロダクションの講義を受け持つことになり,改めて自分なりに考えてみたことを以下に少し書きます.
・原典をたいせつにする  今や,新しい発見,発明が電気電子工学の分野でありえるのか?といった意見を聞きます.つまり,もう電気電子工学はほぼ完成し,十分役に立つ製品,装置,システムが世の中に出回り,研究としてなすべきことは無い という意見です.子供の頃から携帯電話があり,インターネットは当たり前,パソコンは一人一台,車はハイブリッド,ロボットはTVで人と一緒に踊っている といった世の中で,これ以上何が必要なのかと考えてしまいます.技術に関する渇望感は今の日本の社会ではほとんど見受けられません.次に何が必要なのかと考える前に,今の技術がどのようなものであるかをもう一度見直してみることが必要です.世の中に一つの技術が広がり,あまねく同じ装置,システムが行き渡るということは,人間の活動を同時にその中に拘束してしまうとになります.それは同時に,人に寄与するという視点(大域)から,システムを維持し同じ環境を続けるという視点(局所)への転換を生みます.その時,あり得るのはシステムの平衡状態近傍での微調整のみとなります.これは今の技術の流れのほとんどの場合に当てはまります.いろいろなシステムの社会的な位置づけの矛盾なども,このシステムを維持するという観点からは無視され,利用者個人の問題と片付けられます.ほんとうにこれでよいのでしょうか? 何がより良いものであるかはわかりませんが,それを何らかの数値的目標を決めて最適化を図るのが今の技術から生まれる経済です.  日本の今の学生に欠けている点は,技術の流れとその拠り所とする原理,そして次にどのような原則を構築して行くべきかという学習と視点です.電気電子工学概論の講義の中で,私は皆さんに電気電子工学が拠り所としてる数学のほとんどが19世紀中までのものであり,その後の数学の発展を消化しておらず,物理は20世紀初頭の量子力学までで,個別の事例を除けば,素粒子に至る物理は工学にまでは至っていないことを述べています.従って,現在世の中で人気のあるもの,脚光を浴びているものを追い求めることは,技術の一つの枝から伸びは枝葉末節を確認する作業にすぎないのです.仮に大きな技術的な展開があるとすれば,それは幹からのびる別枝に移るだけの大きな視点の変化が必要と成ります.それを見いだせるためには,現在の技術からそのよりどころとする数理物理の原典に立ち返り,その原理を再度見つめ直して展開を図ることです.その意味で,技術の系統樹のそれぞれの内容をもう一度見直すことを奨励しています.計算機は今では電子式が当たり前ですが,その原典は機械式です.力学原理を用いてメモリを作り,そのメモリへの力学的アクセスで演算を行う・・・それが真空管からトランジスタに変わり現在に至っていることは言うまでもありません.だから,機械式の勉強は不要であるというのは,一つの枝の上の議論にすぎないということを上に述べています.たとえば,DNA をメモリに使うといった考えは,計算機とはどういうものかという原典に戻り,新たな枠組みを提示するものに成ります.それらを実現するためには,新たな物理計測,その裏返しとしての制御が必要と成ります.一連の技術的課題は,計算機なるもののあり方(チューリングマシン)に合わせるのであれば,別の枝と並行してDNAコンピュータの枝が伸びて行きます.  別の観点を述べます.原典といわれる論文を読まずに,最近の洪水のように出る手を換え品を変えた論文にばかり目を向けてしまうことで,大きな落とし穴が生まれます.それは,途中の論文(論文はある研究者の考えを含む一般原理の提示である・・・すなわちそうでないものは論文とはならない)で棄却された考え方を,知らず知らず後のものが無視していることです.論文といえども研究者の心理を反映し,その人の栄達や野心を反映しています.そのため,政治的な動きも含まれてしまいます.それを無意識に踏襲することで,幹からのびる多数の枝の方向を知らずに,枝の途中から伸びた短い枝を本枝と思ってしまうことです.  同じことの繰り返しになりますが,必ず技術・法則の原典に戻り,そこに含まれる創造者の思考の多様性を自分の意識で追体験し,研究を洗い直して行くこと それが研究者に求められることであり,それなくして研究者にはなれません.原典を引用していないような論文は,結局は一つの小枝を接ぎ木してあそぶ行為でしかないということを心しておいてほしいと思います.
・研究室のもつ原理原則  電気系の研究室(分野)は,電気電子工学という幹から出た枝です(もちろん電気電子工学が物理という幹から出た枝と言うことも言えます).それぞれの枝には伸びる原理原則があります.それらの研究室を選択することは,この枝の原理原則を選ぶことになります.もちろん,その枝を手入れしている庭師の人(教員)を見て選ぶという考えも成立します.いずれにせよ,そこで得る指導は,原理原則の理解と手法の繰り返しの練習となります.  我々の研究室が原理原則とするものは「非線形動力学の理解と応用」です.それは他の研究室とは異なるものでなければなりません.物理界は基本的に非線形な世界です.その性質を理解することを電気電子工学という Engineering Science を通じて行っています.従って対象は,電気エネルギーネットワークから,パワー回路,パワーデバイス,MEMS,そしてそれらの制御と広がっていますが,その研究のよって立つ原理は同一としています.決して闇雲に適当にはやりのテーマを集めている訳ではありません.
・研究の指導  研究室の研究を継続的に行って行くためには,先輩から後輩によるグループを作り,その中での指導で研究を進める方法があります.しかしながら,我々はそのような設定は行わず,各人が独立のテーマで,独立の手法で課題を見いだし挑戦することを重要視しています.理由は,研究テーマは既に存在するもので,学生はそれを指導の元に実施して行くだけという意識を与えないためです.たとえば企業に就職し,コンセプトを与えられた後その製品を開発する場面を想定してみて下さい.だれがその課題を具体的な問題として与えてくれるのでしょうか?   いつの世も「今時の学生」論があります.あえて言えば,今時の学生は,課題が常に目の前にあるものとして考え,それを効率よく(楽に早くミスが少なく)解くことを考える傾向が強い と言えます.しかも答えを求める.それは,受験勉強の弊害の最たるものです.人の理解能力のテストを行い,その順列をつける方法はそれで良いのですが,個人の能力の向上としてはそれでは不十分といえます.従って,研究室における研究指導は,この点を修正することに最もエネルギーをつかいます.自分が秀才と自負し自信のあるひと程,この指導が難しいということを書いておきます.卒業まで自らを修正できなかった人は多数居ます.  だれしも,一足飛びに研究者になれるわけではなく,それぞれの年次に応じてすべきことがあります.卒業研究では,課題に対して提示された手法を用いてアプローチし,その課題を理解すると同時に手法の運用能力をつけます.修士の研究では,課題の妥当性を検証すると同時に,提示された複数の手法から客観的に適切な手法を選択し,その課題の理解と展開を図ります.最後に博士の研究では,自らの望むべき方向性の中で課題を見いだし,その手法自体を見いだし開発するとともに,課題の一般化と結果から新しい世界を生み出して行くことを重要視します.要するに最終的にどのレベルまで自分が行くかを決めたとき,そのアプローチが決まります.新たな道があっても結構ですが,大数の法則としてそれが基本だと思います.ただ自らの満足だけで研究することも可能ですが,博士の段階では自分の結果を学会等で発表すると同時にそのソサィエティの一員として活躍するすべも勉強する必要があります.教員の親掛かりの状態から自律して行く過程となります.
・研究室への配属  望むか望まざるかはわかりませんが,研究室配属が各人の成績で決まるようになりました.しかし,成績はその人の研究能力と一対一に対応するものでないことは自明です.一方で,良い成績を取ることを否定することは間違っています.その中で,あらゆる可能性を入学時から提示している中で,自らをコントロールして成績を収める能力は評価されるべきものです.でも,それが必ずしも良い研究成果を生むものではないということは何を意味しているのでしょうか?  研究室の選択の考え方を見直してみる必要があります.たとえば,A という学問分野に興味を持ったとします.その時,A に属するすべての研究室が同じなのかということです.上述したように,研究は幹で決めることもできますが,その後の枝葉の剪定ルールが納得できなければ,研究継続は困難と成ります.そういう手法論への共感は非常に重要と考えます.今後,研究室の配属を考えていかれる方は,ぜひその点を今一度問いかけてみて下さい.そこには人という要素が避けられません.

2.研究者であること 

・自らが研究者でありつづけること  最近,特にこの点に困難を感じるようになっています.一つに,国立大学が法人化され,予算を確保することに大学が躍起にならざるを得なくなっていることです.もちろん,博士課程学生のRA予算を確保し,優秀なRA, PD や若手教員を雇用することは重要です.しかし,それが競争的であるため,基礎的な立ち上げに時間が必要でも,現時点でお金のあまり必要がない研究が狭間に落ちてしまうことです.二つ目に,新しい分野を創成して行く時間的余裕がなくなってきていることです.これは,過去の資源を使い尽くしたときに終焉を迎えることを意味しています.大学として,法人化前の穏やかな研究スタイルと競争的な研究スタイルをどのように両立していくのかは,解決されていない課題です.それを忘れた今の日本の大学は,自分が学生の時から追い求めたものではありません.  このような状況の中で,指導者が研究者であることを楽しむ姿勢がなければ,若い人が研究者になりたいと思えなくなってしまいます.それを意識したとしても,日々追われてしまう現状は適切とは思えません.
・研究と論文数  研究者はその研究成果で評価されます.同様のテーマを同じ手法もしくはそれをアレンジした方法で少しずつ進めて行く・・・確かに論文はたくさん出ます.学会の論文誌も評価が固まった論文の拡張は容易に掲載します.一つが二つ,二つが四つといった図式です.しかしそれが研究でしょうか? 演習にすぎないのではないか! こういう考え方が自然選択により駆逐されていないことは,学会といえども真理を求める以外の価値観で動いているということです.一つのテーマに対して,+a, +b, +c といた追加手法を繰り返す研究もあります.それがその分野の研究論文のパターンと言われることもあります.何のパターンでしょうか? 論文掲載の最適化のパターンにすぎません.これも演習です.  論文掲載数は何を意味するのか? 同じことを繰り返して数が多い・・・そんな破廉恥なことを指導者が続けると結局はその学生は同じことを繰り返すことを最適と判断します.それで残る研究者が自然選択されるというのは,研究の世界ではあってはいけないことです.論文の数という悪魔が教育を低下させている例です.作業に落ちた時研究は終了です.  こんな当たり前のことを,言わなくては成らなくなっている世の中の動きは,私自身が研究者を続けることを困難に感じさせています.卒論,修論の研究内容で,論文誌に掲載されるものもあれば,まだ十分な理解に至らずに継続的な検討をするものがあります.いずれが優れているかという話に成りますが,決してどちらも遜色はありません.それぞれの研究にはフェーズがあります.その萌芽期と結実期では異なるのは当たり前で,結実を得た人はその萌芽を尊重し,結果をそれらの努力の産物として世に問うことになります.それは,研究室の研究活動の成果であるなら,どのフェーズも重要です.  論文数を多く確保する作業も重要ですが,それとは異なるペースで動く分野もあるのです.その違いを理解できないような風潮は,やはり正常とは言えません.引用数に関する議論も同様です.息の長い研究は,直近の論文数では議論できません.上に述べた原典は,それこそ評価されるべきものですが,そこまでさかのぼれる論文は短期には多くはありません.  とは言っても論文の数を問う今,研究者としての懐の広さが問われることに成ります.それを学生の時に醸成することが最も重要ではないかと思います.

おわりに 

本ページで述べたことは,あくまで京大電気系の一教員としての意見にすぎず,学科,専攻の意見ではありません.
 最後に,自らが間違いと考えた時にはすぐに出発点に戻って修正できるフレキシビリティを学び,その後に生かしていく姿勢を,電気電子工学という分野で学んでほしいと思います.それ一つ理解できないまま新しい分野や世界に飛び込んでも,同じことの繰り返しでいつも入り口まで行って,中を覗き見し,大変そうだからと言って帰ってくることを続けることにしかなりません.それでは決して真理との会話は成立しないのす.
 今回の書き直しは,研究室の卒業生S君の示唆によるものです.OB 会の折りに率直にこのページの内容の修正を進言してくれました.彼が学生のころに求めた研究室の姿を思うとき,その意見を率直に受けることが正しいと判断したものです.ここに御礼を申し上げます.

年初の挨拶2008年版

1.研究の開始 

さて,このページを読まれる方は,何がしかの興味を持って,研究室のホームページをネットサーフされたものと思います.
 毎年4月になると,京大電気系の4回生が研究室に配属されます.最近は,配属方式が変更になり,3月の間に学生各自の成績により,本人の意思を重視して決定する方式をとっています.だいたい研究室を1番から42番まで希望に従って順位付けできる自信は私にもありません.せいぜい10番目程度で,あとはどこでも結構という感じであろうと推察されます.絶対行きたくない研究室には42番をつけるというのが,最大限の抵抗の方法なのであろうと思います.その程度にしか研究内容の区別がつかないのが,4回生としてはあたりまえと思います.
 最近の配属された学生の方の行動に関して気になることがあります.たとえば,
  • 過去の研究成果に敬意を払わない.
  • ネットで検索する事を研究と勘違いして考えない.
  • 自分が所属するグループの価値観を全てと思い,公の場所でそれを主張する.
  • 科学的な議論ができるだけの語学力(日本語力)がない.英語は言うに及ばない.
  • 頭の中だけで考えて,それを文章に落とせない,あるいは黒板で説明できない.
などです.挙げれば切りはなく,単に年齢の行ったものの苦言にすぎなくなります.
 過去,少なくとも10年前までは対応が不要であった上記のような問題点に対して,研究室の研究システムが対応しているかというと,答えは否です.そのため,論文完成のための多くの時間は,実験データの読み方,計算の仕方,はては日本語の表現指導に費やされています.これが現実です.にも関わらず,妙に自信過剰になっている学生の存在は,ほんとうにこれからの日本の科学技術を支えて継承して行けるのかどうか大いに疑問です.その自信はどこからくるのかが疑問でなりません.いつの世も変わらない話かもしれませんが,少なくとも一般の科学技術への間違った理解と相まって,難しい将来が待っている様に思います.
 過去のページにも書いていますが,研究をはじめるに当たり,あるいは続けるに当たり,絶対に守ってほしい原則があります.以下にそれを書きます.

研究の原典をたいせつにする 

今の学生の最大の問題は,ネットで自由に情報が得られる様になった事により,研究の資料を集める事 とネットサーフィンの明確な違いがわかっていないように思われることです.ネットの情報は,だれの審査を受けたものでも,公の評価を受けたものでもありません.多くの指標はそのページへのアクセス数であって,決して内容の正しさ,内容の優劣でもありません.完全に一方的な公開ですから,うそや偽りでも十分に人を引きつけられることは明らかです.そのようなネット上の情報を,科学技術の発展のための基礎情報とする危険性を十分に理解し,本来の意味で正しい情報を得て行くためのアプローチを学んでほしいと思います.そのためには,研究の原典を求め,技術の流れとその拠り所とする原理,そして次にどのような原則を構築して行くべきかという学習をしてほしいと思います.そういう情報を集めるにはネットは最適なシステムです.
 面白い例があります.磁気浮上が制御なしには安定化できないということを証明したとされるイギリスのアーンショーの論文があります.それは,静電界に関する論文ですがそのアナロジーから磁界でも同様であるとされるものです.今ではホームページでその情報を得る事ができます.
http://en.wikipedia.org/wiki/Earnshaw's_theorem
さて,彼の論文
Earnshaw, S., On the nature of the molecular forces which regulate the constitution of the luminiferous ether., 1842, Trans. Camb. Phil. Soc., 7, pp 97-112.
が書かれた時代背景を思い出して下さい.この時代は,まだ真空中はエーテルが充たされてるということを前提にした議論がなされています.タイトルもそうです.ところがこのページにはどこにもその単語一つ出て来ない.過去にエーテルの存在が否定されているわけですから,それは無視するとしても,この論文自体は正しいのかといった議論があってしかるべきとなります.エーテルの存在の可否に関わらず,彼の理論が成立するわけですが,本当にこの論文の原典を読んだ人がどれだけいるのか,たとえば「アーンショーの定理が否定された」といったページを書き込んでいる人が本当に読みこなしているのか疑問があります.以前から過去の原典を読まずに論文を孫引きするという行為は横行しています.そういった行為が,過去の論文成果を間違えて伝えたり,あるいはその成果を間違って否定したりする原因となっています.場合によっては,その先見性を認めずに孫引きしたものが主張するなどといった,愚劣な行為にも繋がっています.必ず原典となる論文を読むこと,それが研究の開始に当たっての鉄則です..
 同じことの繰り返しになりますが,必ず技術・法則の原典に戻り,そこに含まれる創造者の思考の多様性を自分の意識で追体験し,研究を洗い直して行くこと それが研究者に求められることであり,それなくして研究者にはなれません.自分がその論文の内容を検証するに至った時,たとえば1990年の論文であれば,自分の理解が人類の歴史の1990年まで来たのだとよろこべる勉強をしてもらいたいと思います.

研究テーマ 

研究テーマに賎卑はありません.あるのは課題の深さです.学生ははやりのテーマに携わる事を得意げに話す事があります.それはテーマによって自らの価値を高めたいという気持ちの現れとして,よくあることです.しかし,だれもが先端を進め,自ら未開のフィールドに入って行ける力を持っている訳ではないのです.
 いつの世も「今時の学生」論があります.あえて言えば,今時の学生は,課題が常に目の前にあるものとして考え,それを効率よく(楽に早くミスが少なく)解くことを考える傾向が強い と言えます.しかも答えを求める.それは,受験勉強の弊害の最たるものです.人の理解能力のテストを行い,その順列をつける方法はそれで良いのですが,個人の能力の向上としてはそれでは不十分といえます.従って,研究室における研究指導は,この点を修正することに最もエネルギーをつかいます.自分が秀才と自負し自信のあるひと程,この指導が難しいということを書いておきます.
 卒業まで自らを修正できなかった人は多数居ます.すなわち,だれしも一足飛びに研究者になれるわけではなく,それぞれの年次に応じてすべきことがあります.卒業研究では,課題に対して提示された手法を用いてアプローチし,その課題を理解すると同時に手法の運用能力をつけます.修士の研究では,課題の妥当性を検証すると同時に,提示された複数の手法から客観的に適切な手法を選択し,その課題の理解と展開を図ります.最後に博士の研究では,自らの望むべき方向性の中で課題を見いだし,その手法自体を見いだし開発するとともに,課題の一般化と結果から新しい世界を生み出して行くことを重要視します.要するに最終的にどのレベルまで自分が行くかを決めたとき,そのアプローチが決まります.新たな道があっても結構ですが,大数の法則としてそれが基本だと思います.ただ自らの満足だけで研究することも可能ですが,博士の段階では自分の結果を学会等で発表すると同時にそのソサィエティの一員として活躍するすべも勉強する必要があります.教員の親掛かりの状態から自立して行く過程となります.
 研究テーマ それは上記のアプローチを学ぶために与えられた演習課題に過ぎないのです.問題はテーマのはやり廃りでも,分野でもありません.

2.研究者であること 

自らが研究者でありつづけること 

最近,特にこの点に困難を感じるようになっています.一つに,国立大学が法人化され,予算を確保することに大学が躍起にならざるを得なくなっていることです.もちろん,博士課程学生のRA予算を確保し,優秀なRA, PD や若手教員を雇用することは重要です.しかし,それが競争的であるため,基礎的な立ち上げに時間が必要でも,現時点でお金のあまり必要がない研究が狭間に落ちてしまうことです.二つ目に,新しい分野を創成して行く時間的余裕がなくなってきていることです.これは,過去の資源を使い尽くしたときに終焉を迎えることを意味しています.大学として,法人化前の穏やかな研究スタイルと競争的な研究スタイルをどのように両立していくのかは,解決されていない課題です.それを忘れた今の日本の大学は,自分が学生の時から追い求めたものではありません.
 このような状況の中で,指導者が研究者であることを楽しむ姿勢がなければ,若い人が研究者になりたいと思えなくなってしまいます.それを意識したとしても,日々追われてしまう現状は適切とは思えません.目新しい論文が出たとき,それを実験して楽しんでみるという姿勢,それが失われたとき,研究者を辞める時であろうと思います.
 学生の方が必要な事は,知識を与えてくれる環境と同時に,考える場を与え,それを試行する機会を与えてくれるPIと出会う事です.それを目指して,人を育てて行くことが研究者であることの意味と思います.学生が目標とする研究者で有り続ける事は不可能です.しかし,そうありたいと思い続けるのが研究者でもあります.

研究と論文数 

研究者はその研究成果で評価されます.同様のテーマを同じ手法もしくはそれをアレンジした方法で少しずつ進めて行く・・・確かに論文はたくさん出ます.学会の論文誌も評価が固まった論文の拡張は容易に掲載します.一つが二つ,二つが四つといった図式です.しかしそれが研究でしょうか? 演習にすぎないのではないか! こういう考え方が自然選択により駆逐されていないことは,学会といえども真理を求める以外の価値観で動いているということです.一つのテーマに対して,+a, +b, +c といた追加手法を繰り返す研究もあります.それがその分野の研究論文のパターンと言われることもあります.何のパターンでしょうか? 論文掲載の最適化のパターンにすぎません.これも演習です.
 論文掲載数は何を意味するのか? 同じことを繰り返して数が多い・・・そんな破廉恥なことを指導者が続けると結局はその学生は同じことを繰り返すことを最適と判断します.それで残る研究者が自然選択されるというのは,研究の世界ではあってはいけないことです.論文の数という悪魔が教育を低下させている例です.作業に落ちた時研究は終了です.
 こんな当たり前のことを,言わなくては成らなくなっている世の中の動きは,私自身が研究者を続けることを困難に感じさせています.卒論,修論の研究内容で,論文誌に掲載されるものもあれば,まだ十分な理解に至らずに継続的な検討をするものがあります.いずれが優れているかという話に成りますが,決してどちらも遜色はありません.それぞれの研究にはフェーズがあります.その萌芽期と結実期では異なるのは当たり前で,結実を得た人はその萌芽を尊重し,結果をそれらの努力の産物として世に問うことになります.それは,研究室の研究活動の成果であるなら,どのフェーズも重要です.
 論文数を多く確保する作業も重要ですが,それとは異なるペースで動く分野もあるのです.その違いを理解できないような風潮は,やはり正常とは言えません.引用数に関する議論も同様です.息の長い研究は,直近の論文数では議論できません.上に述べた原典は,それこそ評価されるべきものですが,そこまでさかのぼれる論文は短期には多くはありません.  とは言っても論文の数を問う今,研究者としての懐の広さが問われることに成ります.それを学生の時に醸成することが最も重要ではないかと思います.

おわりに 

本ページに書いたことは,あくまで一教員・研究者としての意見にすぎず,学科,専攻の意見ではありません.既に今年は研究室配属の希望票が提出され,成績も出そろいました.希望が叶えばそれに越した事はありません.かなわなかったとき,自分が成すべき事が何か,少し立ち止まって考えてみることが必要です.


年初の挨拶2009年版

1.研究室を選ぶこととその意味 

3回生もしくはM1が配属されたい講座・分野(研究室)を選択することの意味は,自らのメジャーとなる一つの専門分野を選択する事であることは言うまでもありません.しかしながら,工学の基礎としての全学共通科目,電気電子工学の専門科目を修得して来た学生の皆さんには,その一部をメジャーとする生き方が果たして正しいのでしょうか?そんな狭い世界を若い時点で選択してしまうことが本当の意味だとしたらそんなに悲しい事はありません.どの教員も言う様に,所詮その研究分野は入り口にすぎないということを理解してもらいたいと思います.
 自らが学ぶ事を忘れてしまったらその人はどこにいても同じですが,研究の入り口において,おそらく誰もが研究の課題を与えられます.それが自分の好きな科目に近い所で選んだとして,課題の背景,意義,価値,目的を自分で肉付け出来るかどうかです.そして,その課題を通じて研究のアプローチを学習したあとで,本当の研究が始まります.それは「何が問題なのか?」.これまで受験勉強,試験の勉強を続けて来た学生にとって,いちばん難しい問い:それは与えた課題において何が問題なのかを自ら導きだせるか が問われます.それは単にそう思うとか考えるといった感想ですまされるものではありません.論理的にあらゆる可能性を思考実験,数値計算,実験でつぶして,そして教員が与えた課題に対して,一体いま何が問題なのかを自ら導出できるようになること それが最も重要な問いかけだと思います.その問いかけがどの分野でなされるのであれば,これまでの勉強して来た知識から対応できて訓練に入れるか という側面から研究室を選ぶことが大切なのではないでしょうか? 皆さんが卒業し,大学院を修了し,研究者として一人前になった時,その研究室で学習して来たテーマは過去のものとなります.テーマの人気で選ぶのではなく,どの領域で訓練を受けるのが自らの方向性に合致しているかを考えて選んでもらいたいと思います.
 研究室で受ける訓練には自ずから方向性があります.4回生で受けた訓練は一生ベースとする拠り所になります.逆に大学院で研究室を変わると,その訓練が再度必要となります.異なる価値観の訓練を受けた人を研究者として確立させるには一部修正して再度訓練するということも必要になります.これは知識ではなく,体験として残るからです.それほど本質的な訓練であるという事を今一度考えて研究室の選択をされるべきであろうと思います.研究室を変わることは悪いことではなく,新たに新しい価値観を受け入れて最初からもう一度学ぶ気であれば何も問題はありません.問題が出るのは,最初に得た価値観だけを通して新しい環境の価値観を拒絶する時です.

2.研究室でまず求められること 

研究室見学に来られるたびに,「休みはどれだけありますか?」,「大学院の入試の勉強はできますか?」,「テーマは先輩と同じですか?」,「実験は忙しいですか?」・・・上げれば切りが有りませんが,聞かれる方もいい加減嫌になります.だから最初からすべてをありのままに伝える様に先輩の学生さんにはお願いしています.それは個人次第です.ネガティブキャンペーンを張って人気がないという事はその学年はそういう人の集団だと私は判断します.それで良いと思っています.自分に足りないものがあれば時間も惜しんで補充するのが学生として当然であり,余裕があれば人にも教え,さらに新しい事を試み,いつも全力で走るべきだと思います.適当に手を抜いてその場を凌ぐという態度は受け入れていません.ましてや何時から何時までだけ勉強するなどというサラリーマンの様な勉強で律することが出来る専門分野はありません.その分野でトップを走っている人に比べてそれ以上に勉強に集中しなければ,それ以上は有りません.だから,これらの質問は価値観に合うものではありませし,その程度で専門の主張できるような適正はありません.
 研究室は,一つの価値観で教員と学生が同じ方向のテーマに対する研究の訓練をする場です.学生の方を労力と考えて実験をさせるところではありません.その研究室の中で研究テーマに関して,教員と学生が共同研究者となりうるまでには,ある一定以上の経験と訓練が不可欠なのです.研究室はその場を提供しているにすぎません.教員も先輩も誰もが各自独立の研究テーマを走らせています.たとえば教員も新しい分野を基礎の基礎から立ち上げて行きます.各テーマを研究室という括りの中で議論し,世に問えるかどうかを磨いて行く場としています.その中で不充分であれば,他の研究室,他の大学,海外の研究者という外の世界でのポリッシュアップを図ります.それらを経た後,論文誌,学会での公表に値するかを決定していくプロセスを遂行する場となります.従いまして,教員も学生もそれぞれのテーマを尊重しながら,真摯にその内容を議論する場でなければなりません.何か美味しいものが無いかとか,いい結果だけを示しておけば良いとか,何か良いところだけを取れるものはないかといった,自分の事だけを考えた行動をする人がいれば,その時点で成立しない世界です.
 すなわち,研究室という括りの中では,教員も学生もそのテーマが成立する原典の精査から結果の完成までをさらけ出す事ができなければ,お互いに向上できないのです.それぞれが護りに入り,学生からの意見に教員が聞く耳を持たない,またそれに考え方を示さずに隠す,あるいはどちらかがどちらかを人足の様に使うといった場では望めないものです.意識して維持しなければ成立しない環境を作り上げなければなりません.
 研究室でなされることが何か分かったとき,皆さんが取るべき方法は,その研究室の教員,先輩と価値観を共有できるかどうかです.配属された後は,そのための学習が最も大切となります.少なくとも皆さんに教員や先輩が合わせることは絶対にありません.

3.研究室で学んでほしいこと 

どの研究室もそうですが,京都大学の研究室である以上,夫々の分野で重要なテーマに挑み,新たな分野を切り開く仕事を行って他に提示するのが当然です.分野に上下はありません.経済状況,政治,そして様々な動向で世の中がもてはやすテーマは変わります.そんなはやり廃りに関係なく,新しい分野を切り開く研究を推進することは並大抵ではありません.私の師は自分の研究に関して「流行った時には全てが終わっていた」と言い切ります.上に述べた様に,学部の専門科目の狭い範囲の学習ではそれらの分野の推進には何の役にも立ちません.電気電子工学の全ての分野の知識に加えて,物理,数学,そして化学,生物学等の知識を必要に応じて運用できる総合能力が必要なのです.そういうことを訓練の中で知っていった時,さらに電気電子工学の専門だけでは足りないことに気がついていきます.それは,電気電子工学が工学の全ての分野の基盤になり,さらにそれらを吸収して拡大しているからです.逆に他の分野も電気電子工学の知識無くして何も出来ない程になっています.そんな中で,電気電子工学の学生がもつ理解の重要なことは,電気電子工学としての電磁界理論,回路理論,量子力学,システム,エネルギー的な理解とその解析運用力です.物理からエネルギーまでの全てをその対象に応じて使い分け運用できると同時に,無次元化による一般化及びスケール則に基づく洞察によって,統括的に事象を理解できるようになることです.そういう能力が電気電子工学の学生として求められるものであり,狭い専門性は,多くの学生の就職に当たっては訓練の一課程としてしか見られていません.すなわち,訓練の分野そのものではないということを今一度述べておきます.残念ながら,多くの大学院生においてもそれが理解されていません.一方で,多くの教員においても総合的な力が重要とおもいつつも,即戦力を重視し,個別の知識に偏った人を輩出してしまっていることも事実です.その中で,学生はバランスを取って自らの能力を高めて行くための総合力を,基礎から高めてほしいというのが私の考えです.
 総合力には全てにおける基礎力が必要です.学部の専門科目で学習した事は,電気電子工学としての基礎です.それらの基礎の上にこれから研究に向けたさらに必要な知識と能力を築いて行かねばなりません.先輩との輪講,教員との輪講,そして研究室間での勉強会などを通じて,あらゆる情報を習得してもらいたいと思っています.「研究テーマ」はそのためのモチベーションの一つです.

4.学習することと研究することの違い 

「研究する」とは何を意味するのでしょうか? また「学習する」ということとの違いは何でしょうか? 残念ながら修士を終えた人の少なからずが分からないままに修了して行っています.学部生であればいざ知らず,わからないままに修士に進学し,そのまま終えてしまう現状,これは偏差値や学力とは別の次元の話です.
 要領の良さは成績を取るために重要かもしれません.そういう人ほど,研究に際してウェブやデータの調査だけで自分が研究した気になって,その内容の精査もせずに鵜呑みにして筋だけを作ろうとする傾向が見られます.そのような作業は研究には何の役にも立ちません.データを前にしても,そのデータの信憑性を問わずして,人の説明を借りて説明をつけて悦に入る・・・それは作業者の浅知恵です.何の学習もありません.これは研究以前の問題で,学習も出来ていません.
 先達の結果に敬意をはらいつつ,そのデータを自らのデータで再検討する作業から理論や過去の成果の理解が始まります.原典のデータを得る事ができずしてその理論には到りません.その作業が学習です.手を動かして理論計算し,時間をかけて計算もしくは実験する.その結果見えるものが原典の理論で説明できた時,その結果が学習出来たと言えます.もし,その中に説明できないデータがあったとき,皆さんはどういう行動をとるでしょうか? その行動の選択が研究者の将来を大きく決定します.そのとき,学習した全ての知識を当てはめて説明を試み,その中で説明がつかないときさらに学習を続ける,そしてまた説明を試みる・・・この作業は不毛です.しかしそれを意識下,無意識下で行える資質が,研究者として最も重要なものです.その時点の知識で何も得られない時,疑問点として意識しながら自らの引き出しにしまい,理解の結実の時を待ち続けることが出来る能力が必要となります.それは要領とはほど遠い能力です.なまじ,分かった様な解釈を与えて忘却することは禁忌なのです.人に説明をもとめ,もっともな説明を受けて納得してしまう事もあり得ますが,それでも理解できないときどうするかが重要です.
 研究できる能力とは,自己主張や人の受け売りをする能力,言うまでもなく政治的に組織や学会を運営する能力ではありません.あくまで科学的対象に対して,その疑問点に対して,可能なあらゆる手段を講じて理解を試み,可能性を全て洗いながらそのメカニズムや合理性を追求し,自らの試みていることが新たなことであることを証明することの出来る能力であると言えます.直感が優れている人に会う事があります.それは直感ではなく,その人が全ての能力で,その問題のポイントを他の誰よりも早く(瞬時に)それまでの知見の総合力から見いだす事ができる能力を高めているということであると言えます.それを証明して行く事がその人に課されます.できないときは,合理性の無い判断をしたと言われてもヤムを得ません.発見とは言えません.だから研究が必要なのです.だれもがその成果を,特別の知識や技量を経ずにたどることが出来る様になったとき,研究は完成します.
 しかし,学習は終わりません.またあらたな理解のために学習がその完成の時から始まります.

5.研究者とは? 

研究者とはどういう存在でしょうか? 私も明確に定義をすることはできませんが,身の回りにあった例を挙げてその答えとしたいと思います.
[例] 学生が日頃から検討している方程式の数値計算をその日も検討を試み,教授から依頼されたパラメータの地図を作る作業を行っていた.これまでのデータで概ねその概要が明らかとなり,そのほとんどが明らかとなった.現象が変化する分岐点集合を求める中で,曲線的に変化する部分と直線的に変化する部分が近づき,ある領域でつながる様に思われる.これをつなぐと話が単純であり,また図も美しく出来上がるように思われる.ただ,若干そこで曲率が異なり,少し違和感がある.このデータを実験で求めても,数値計算でも同様である.結果として,これらの分岐点集合をつなげて,データをつけて教授に報告し,論文としてまとめることになります.そして,このデータの問題を海外の研究者に指摘されることになります.そこに新しい誰も知らない現象が埋もれていました.
皆さんはこの例をどう感じますか? 訳が分からない説明かもしれませんが,実は私が学生の時に体験した大失敗の例です.私は配属された U 先生の研究室で,「カオス」の研究をすることを希望しました.Duffing方程式のカオスの発生のメカニズムには U 先生が知らないものはもう残っていないと言われていました.我々はそれを信じつつ,学習を兼ねて同形の方程式の解析を行い,カオスの発生・消滅を説明する分岐集合を何日も追いかけました.その作業の中で,カオスが消える領域の前後での分岐の様子が大きく異なる点が上の気になる点に含まれていました.それを見つけることが出来なかったのです.U 先生からは学会の公の場で,その新しい分岐を見つけられなかったことを叱責されることとなりました.私の責任の大きさを痛感させられた,また研究者としての自覚を求められた瞬間でした.
自らが研究者となっていなかった姿をそこに見ます.作業者として図を完成すること,それしか頭にありませんでした.新しいものはいつなんどき目の前に現れるか誰にも分かりません.そのための準備が全く出来ていませんでした.少なくとも学習ができていませんでした.それ以後,この世界で仕事をするには自分はまだ早いと理解し,その後8年近く手を出す事はありませんでした.次に手をつけたときに発表した結果は海外の研究者との共同研究でしたが,それが私の結果であることと,私が再びこの分野で仕事を始めたことを U 先生に伝えてくれたのは,先に我々が見つけられなかった結果を見つけて突き付けて来た同じ海外の研究者でした.
[例] これもまた自分の例です.あるとき,電話が有り,最近発表になった結果の説明をしてほしいから訪ねるとの話がありました.初めての経験でもあり,喜んで引き受けました.ある日,その研究者が訪ねて来た際に,求めに応じて懇切に説明をし,その面白さ,新規性を主張して自らをアピールしました.それから数ヶ月後,ある研究会でその研究者が同じ現象を自らの実験装置で見つけ,新しい現象として論文投稿していることを知る事になりました.あわてて論文誌の編集委員会にその内容の確認をしたところ,私の発表済みの論文を引用もせず,完全に無視した形で論文が書かれているというものでした.それから数ヶ月,編集委員会,査読者を交えたバトルが続きます.最終的にその論文は元のままでは採録にはなりませんでしたが,同時に私は人間不信になると同時に,その分野の研究から手を引く事になります.
「剽窃」ということばを知っておいて下さい.研究者の世界において,もっとも大切な態度は,他の研究者の成果を尊重し,そしてお互いに敬意を払って取り扱うと同時に,自らの成果を世に問い,疑問があれば公開の論文誌で議論を進めることです.上の例は,我が国の良く知られた研究者であってもこのような人が居るということです.そして,どの研究者も常にそういう状況にさらされるということです.最も気をつけないと行けないのは,研究室内での同様のトラブル,そして研究室間でのトラブルです.大学を越えたケースもあり得ます.そういうことが当たり前という環境でそだった人は同じ事をします.
研究者は,自らの先見性を主張し,それが認められることを第一義にします.その立場を守らなければ,自らの理解を深めて行く事はできません.だからこそ,真摯な,また率直な議論が可能な環境が重要なのです.研究室がその意味を失ったとき存在意義はありません.研究室が,お互いの考えを尊重し,さらに鵜の目鷹の目で美味しい結果がないかという様な浅ましい考えで研究を進める人を排除し,また教育し,そういう研究者を出さないようにすることが最も大事であると考えます.研究室では,結果が公開されていないだけに問題が大きくなります.それを破ったとき,研究者としては生命を失うという事を声を大にして言わねばなりません.

おわりに 

果たしてここに書いた事が,研究室を選ぶことを目的とした学生に対するものかと言われると,必ずしもそうではないと言えます.ある卒業生が過去の記述を見て,誰に対して書いているのですか? と問いかけた事がありました.おそらくそれらは自分に対して書いていたと言えます.要するに,私共の研究室で研究をしたいという人は,ここに書いた事に対して意識してほしいということです.堅苦しい事を書いていますが,その中でこそ研究の形式,レベル,そして共同研究者としての相互の敬意が生まれるものと思うからです.私は,自分の研究のアイデアを実行する作業者を求めているのではありません.共同研究者足りうる学生の方々に,訓練の後,各自の持ち味でアイデアを元にさらに発展した形の研究を進めてもらえ,それを自らの結果として世の中に問う強い意志を持った人と仕事がしたいと思っています.そして,私との共同研究を終えるとき,独立し,あるいは新しい世界でゼロから研究テーマを立ち上げる方法を学んで活躍してもらいたいと考えています.研究室は最初のステップにすぎません.けれどもそれが一生を決めるということも事実です.その意味は,研究分野の表面的な題目というものではありません.
 さて,2009 年度のメッセージはこれで終えます.読まれた方に何がしかの参考になれば幸いです.

年初の挨拶2010年版

2010年度版 

この研究室はどんな研究をしているのか,指導教員はどんな人かを知りたくてこのホームページを尋ねられたものと思います.そういう人に対して,冷や水を浴びせることになるかもしれませんが,私が考えている研究について述べます.その上で研究室を選択してください.

1.電気エネルギー分野(思い出話から現在,そして今後) 

私が学生のころからずっと,電力分野もしくは電気エネルギー分野はそれほど人気がある分野ではありませんでした.私自身,古くさい分野だと思っていましたし,講義でも何か分けのわからに定数をまじないの様に教えて,覚えろという講義ばかりで,そんなものは学問とも思えませんでした.研究対象となる電気機器も,最先端の科学につながるとは思えないようなローテクの機器で,たとえその現象が面白くても,とても勉強したいと思えるものではありませんでした.その結果と言ってもおそらく問題は無いと思いますが,我が国だけでなく世界の多くの大学でこの分野の研究者が居なくなり,研究室が消え,そして専攻が消えてしまいました.京都大学ではそれに対して,基礎研究の対象として維持して来たのが事実です.京都大学の電気系でも,教員の間でも電気エネルギー分野の不要論が有り,新しい分野への転換を図る圧力が高かかったのはさほど昔のことではありません.
本来,電気エネルギー分野は電気工学のあらゆる学問の基盤となるシステム分野です.学問は基礎と応用が絡み合うことにより止揚して新しい展開を生みます.ところが,電気エネルギー分野の研究は,もう既に大学の基礎研究が実験などを進めても現場の問題を解決することもなく,また応用されることも無く,単に基礎として知識を貯えるに留まらざるを得ない状況になってしまっていました.言い換えると,大学で学問的にいろいろな検討をしても,システムではなく企業として成熟してしまった電力業界が,大学の研究成果に重きを置くこと無く,さらには大学に現場の研究を押し付けることで,大学の本来のあり方を損ねてしまった結果,学問として発展できず,分野が衰退したと言っても言い過ぎではありません.一方で,大学でも,昔からの学問大系に固執して,一向に新しい考えを吸収しなくなった研究者が,業界との関係維持だけを続けてしまったのも事実です.
ところがどうでしょう.アメリカ合衆国のオバマ大統領がその選挙キャンペーンの過程で,エネルギー政策を一つの目玉とし,ノーベル物理学者である Steven Chu をブレーンとして新しい政策提案から科学技術を動かす壮大なキャンペーンをはり,そして実際の技術分野を動かし,京都議定書では後ろ向きであったアメリカ合衆国に新しい技術概念の武器を与えてしまったのです.と,とたんにその勢いは科学研究費の地図を書き換え,世界を巻き込んで大きな変革の流れを与えてしまいました.そして,世界中の大学で,もとももと電力の教育を受けたことの無い物理学者,他分野の工学者が,猫も杓子も「エネルギー」「パワー」「グリッド」と声を荒げて動き回る様になってしまいました.日本も同様です.あげくの果ては,他大学の情報や通信工学科といった学科で電力分野の教員を募集する様にまでなってしまったのです.これは,お金の世界が大学の学問の世界の構造に反映してしまう,非常に悲しい話です.(現在新聞を賑わしているグリーンやエコの記述でも,学問とは関係ない業界の勢力争いのコメントや,政治ばかりで,本当の学問としての正直な評価がありません.御用学者の未来の予言は,信じられる未来ではありません.)大学は,短期的な世の中のはやりすたりと関係なく,必要な知識を蓄積し,基礎的な学問を必ず教育していく組織であらねばなりません.それを忘れてしまった大学の見識の無さと体たらくは,あるべくして起きたと思います.すなわち,学問と分野を混同している,応用分野と基幹となる学問を混同しているということです.元来,電気エネルギー分野は電気電子工学の応用分野です.確かに高度経済成長期は多くの学問分野を生み出す源泉となりました.たとえばその中からも物性への学問的深化から半導体分野が生まれて巣立って行ったのです.したがって,応用は必要性を失った時に消えて行くものであり,同時にそれに頼った学問は無くなってしまいます.だから,本当の電気エネルギーの基礎学問とはなにかと言われると何もないのです.では,どうあるべきであったかと考えると,もし分野を維持するなら電気エネルギー分野もその時々の新しい学問,技術を取り入得て常に進歩すべきであったのです.それにもかかわらず,究極のアナログネットワークの世界として残ってしまった:工学のガラパゴスの様な分野になってしまっていたのです.その価値に気づいたのが先のアメリカ合衆国の動向ではないでしょうか? 器用に効率の良いシステムを作っていた日本のこの分野のからは想像だにしない,大きな流れとなってしまいました.ビジネスは定常状態では成り立ちません.そのポテンシャルのグラディエントが大きければ大きい程,資本が動きチャンスが作られます.その意味で見事に成功したわけです.
通信は1990年代にアナログ電話からディジタル電話に大変身を遂げました.それが携帯電話の大普及に拍車をかけ,コンピュータネットワークを取り込んで,音声通信と情報通信は一体化した経緯を振り返ってみれば,つぎに起こることは容易に想像できます.それは,現実の物理層に情報ネットワークが入り込み,その伝送および制御を実現する世界に展開することです.その最初が,電気エネルギーというインフラの大改造につながるのは至って自然ではないでしょうか?なぜなら,すでにコンピュータネットワークや通信ネットワークは電気エネルギーネットワークと共存しているからです.
今後,おそらく10年は電気エネルギー分野,情報通信分野 (ICT) の統合が一つの大きな流れになることは避けられません.このはやりで動くことが大学がやることではありません.これまで通りの研究の上で,必要に応じてこれらの分野に貢献し,新しい概念形成を行って行くことが我々に課された使命だと思えば良いと思います.電気エネルギー分野は全ての電気電子工学の分野からの応用分野なのです.だから,垣根を取り去って,物性も通信もシステムも,必要に応じて展開すれば良いと思います.そういう柔軟性を持つ,あるいは生かせるのが,若いこれから勉強しようとする人たちなのです.既成の学問を宗教の様に信じてはいけません.また権威の言う言葉は裏を読まねばなりません.それができるための勉強を続けてください.

2.研究室の道筋 

大学の工学分野における研究の一つの形は,応用分野を主眼とせず,その根本となる学問を確立・発展させ,それを適用する分野を時代とともに作り替えて行くことです.我々の研究室は非線形動力学・科学を学問の柱にしています.その応用先が電力変換技術,電気エネルギーシステム,MEMSなどです.さらにそれらを昇華して再度数理に戻します.あまりにも違う分野を並べていると思われる方も多いでしょうが,私に取っては応用分野は時々のものに過ぎないことから,至極あたりまえなのです.入り口は非線形動力学なのです.もちろん,応用分野からいきなり入る人もいます.しかしその中で根本の考え方をおろそかにしても結局は表面的な勉強にしかなりません.必ず非線形の基礎としての勉強をしてもらいます.それが新しい学問,応用分野へのフレキシビリティを生むと信じているからです.
研究室に配属された方の多くは,早く研究の題目を与えてもらいたいと思っています.それは落語会のお題です.気持ちはわかります.たとえば親に会った時に「何の研究をしているのか?」と尋ねられたとき,題目で言い切ることができるからです.しかし,そういうことは本当に研究の訓練をしたあとでなければ何の意味も有りません.お題をもらうまでは必至に要求して来ても.その後の勉強をするわけでもなければ,それほど逆に怖いことは無いということを就職の面接などで経験される方も多い様です.学問,研究は付け焼き刃では何の役にも立ちません.学問の系譜を踏まえ,それらを地道に学習した後に,自らのテーマの問題点を再構築できたとき初めて人に対して示すことができるものになるということを知ってもらいたいと思っています.
研究に向かうための近道は,興味を持てる分野の勉強を寝食を忘れて実行することです.締め切りを決められてする試験勉強ではたどり着けない世界です.なぜなら,どこまでやってもこれで良いという勉強ではないからです.昨年ある番組で『みずから限界を決めてしまったときその人はそれ以上の力を出さず,適当に力配分をしてしまう』という話を聞きました.その通りだと思います.学問でも同じで,試験に通る勉強を繰り返すと,単位数分の1の力配分で勉強する習い性ができてしまうものです.疑問があっても,また興味が有ってもそこに集中して勉強することに価値を認められなくなってしまうのです.新しい研究をしたければしたいほど,力配分などせずに今の全てに全力で走らなければならないのです.大学入試は,上に述べた配分を最適化した人が制します.それを否定はしませんが,入り口に過ぎないことをほとんどの人が理解できていないのです.研究の世界は持てる能力を配分せず,全力を出し切って走り続け,先頭に飛び出した人だけが分野を作ることができるのだということを知っておいてください.そのためには,遊びも次に来たタイミングで伸びるためには不可欠です.
ただ自分だけで思索を続けても,人類の科学史を自分が再発見できるはずはありません.従って,良い環境に出会わなければなりません.良い環境とは,自分が出会う人・課題・時です.そんな偶然に近い出会いがその後の研究生活の生き方を決めてしまいます.それほど重要な出会いとなります.卒業,修了後に技術者,研究者を続ける人に取って研究分野はどんどん変わりますが,研究に対して受けた考え方,指導は一生変わらないケースがほとんどです.それほど,アプローチの手法を決めてしまうものなのです.その中で自分が目標とする人をみつけた時,道が自ずから決まって行きます.
皆さんは,これからの京都大学の研究の前線にでて,新しい分野を作っていく人です.その気概と自信に,知識を獲得する地道な力をつけて挑んでいくとき,道は開けます.いたるところに未開拓,未知の研究が埋め込まれているからです.それが新しい研究への手がかりとなります.

3.さまざまな疑問 

寺田寅彦が身の回りの現象にその背後のメカニズムを見た時代,それはまだ江戸時代から西洋の科学技術を輸入して我が国に定着させるための作業を続けていた時代です.その時,西洋と同じ科学の基礎を学習した訳ではない彼らが,如何にして先端科学まで達することができたかを考えたとき,その爆発力のすごさを感じます.たかだか科学技術の基本ルールと使い方を知っただけの人間が,どうしてそこまでいけるのか?多くの疑問があります.元になった思考は,日本の従来の勉学であったにちがいありません.
現在でも多くの国で十分な書籍も無く,科学教育を受ける機会も無い世界があります.にも関わらず彼らが,携帯や通信衛星などの最先端の科学技術を使い,インターネットに接し,その膨大な知識に一瞬で触れることができるようになってしまいました.いきなり大容量の情報のメモリーを処理能力の無い演算装置が得たことにも等しく,まずはルールから学習をはじめる,使いこなして行くことになります.その過程が,従来の常識を超える方法になるかもしれないことを予想しなければなりません.我が国では,人間のコピーを作るのではなく,自ら創造する力をもつための教育的試みを受けたゆとり教育世代が現れました.彼らの能力を従来の教育の尺度から測った限り,それは不十分な学力とレッテルを貼られることになります.しかし,その判断できめつけたとき,この世代が社会から葬り去られてしまいます.そんな村八分のような教育をして良いはずはありません.彼ら彼女らをどのように教育して行くかは,重要な課題であり,大学に与えられた宿題ではないかと考えています.
こういったことを考えるとき,知識として方法論を教えて行く今の大学の教育が適切なものであるかどうか疑問を感じています.従来の知識の蓄積を教えることは,同質の技術者,後継者を作って行くときは効率的な手法です.しかし,このような教育から本当に今の閉塞を打開する新しい技術や世界が生まれてくるのでしょうか? 本来科学は,その根源に疑問があり,そして工夫から技術が生まれ,さらに新たな世界を創造するものです.確かに基礎は弱いかもしれません.しかしきちんとした基礎に乗っ取り,データや情報から類型を導きだし,あらかじめ与えられた知識に当てはめるのではなく,技術を再発見し,その結果既存の技術であっても自ら導きだすことができればそれは次へのステップにつながります.そういう人を育てることにシフトすることが必要なのではないか といった思い・・・これをどのように反映するか思い悩んでいます.
自らが研究者を続けて行くことができるエネルギー源は「疑問」です.なぜ,何が,どうして,どのように・・・これらを大切にしたいと思っています.加えて,表現論をおろそかにしないことが必要です.最後に,反対意見の人と真剣に対峙することを厭わないことが不可欠です.

4.求めた環境,学生,研究者:そしてこれから 

私が京都大学で研究室を運営する様になって今年で10年になります.本当にあっと言うまでした.この間に自分が何をやり,なにを伝えて,何を残して来たのか,顧み反省することも必要です.私が目指したのは,どの分野でも自ら切り開くことができる人を育てることでした.研究室が半講座のころに配属された学生の方々は,本当に苦労されたと思います.その方々が現在,それぞれの世界で中心的な存在になりつつあることを嬉しく思っています.彼らの多くは,ほとんど研究とは関係のない仕事をされています.肝心なことは,分野や手法ではなく,一緒に進めた研究の共有体験であり,テーマを一緒に練り直し,議論してアプローチし,自らの知識の範囲を超えた(むしろ弱いところで)工夫させることであったように思います.その中で,ぶれない目標設定を私が保ち,皆さんに達成感を感じて頂くことができたことが重要な点であったと思っています.たとえその結果が間違ったものであってもそれを検証することの重要性を重視して来ました.
研究室に人が集まる様になり,スタッフも増えていった時に行ったことは,異なる価値観の人を常に私の周りに置くことでした.それは,自分の限界を超えて仕事をすることを自らに課すると同時に,相手にも同様に求め,常に緊張感の中で仕事をすることでした.当然ながら多くの軋轢が生まれ,学生の方も左右されることがありました.私自身がぶれ悩み,失敗しました.自分と同じ環境で過ごした人や後輩は,結局は同質の人たちです.その中で過ごすことは非常に心地よいことです.しかし,大学の研究を進めるという観点で,これは間違っています.あえて,研究室のヒストリーが異なり,異なる考え方の教育を受けた人を混ぜることは,研究者としては大きなリスクを背負いますが,両者の持てる能力が止揚したとき,得られるものは大きいと信じて行いました.
次に行ったことは,学生に留学生と共に研究する環境を作り上げることでした.日本人だけの同質な学生集団で行われることは,お互いに説明の無いまま,雰囲気ですべてを決めて行くことです.研究も言わなくても伝わるといった道の世界の様な話が生じます.少なくとも科学技術に携わる人たちを育てるためには,異なる文化の人,価値観の異なる人,そして年齢,性別を混ぜ,言葉をかわして議論することが必須となります.しかし,自然にこのようなことができるはずはありません.そこで人を選んで,留学生,滞在研究者として受け入れ,研究室の学生と一緒に育てて行くことを設定しました.ちょうど桂に移転する時期でもあり,多くの問題はありましたが,研究室の一体感を高めることができたと思います.ただ,この間受け入れた留学生,研究者が中国に限定されていたことがあり,共通言語が日本語と中国語という課題を残しました.
これらの経験を経て,私自身が海外に共同研究者を求める方針を打ち出しました.そのために,武者修行の様に毎年海外の研究者の所に行って研究成果の講演をする,国際会議でこれはと思える人を捜すという地道な作業を進め,本当の意味で信頼できる何人かの共同研究者を得ることができました.ただ,私からすると全て年齢が下の人を選びました.私が多くの分野を亘って来たことで,研究のレベルが数年後の彼らと丁度釣り合うということと,彼らが今後私の研究室の学生が尋ねて行ったり滞在して共同研究者になるとき,私が一線を退いても頼ることが出来る様にと考えたものです.また,彼らの学生をも研究室で受け入れ,私の共同研究者として遇することを続けました.このような地道な活動の結果,複数の学生,スタッフが彼らのサポートを受けて在外研究を行うことが当たり前の研究室になりました.
現在,大学の専攻,研究科を超えた研究活動を進めています.これは,我々の研究を国内の蛸壷の中の蛸の趣味にせず,つねに国内外で厳しい評価にさらされるようにするためです.現在もその活動中です.特に,応用分野で企業,他大学等々との連携をすすめることも,学生の皆さんの視野を広げることができるようにすると同時に,外部の厳しい評価の目を受けて,税金で研究を続けることを意図しています.
今後,これらの全ての過程を経て,漸く世界でも非線形分野の研究室として知られ認められる様になったと思っています.それぞれの過程で過ごされた学生の方から見れば,だいぶ変わってしまったと思われています.現にそのような声を聞いています.しかし,大学,研究室は常に成長しなければならないものだということを理解してもらいたいと思います.それぞれが居た時代を顧みてなつかしくすばらしいと思う気持ちは認めます.しかしその時と場所は,研究室の成長の過程の1ページにすぎないのです.明日も同じであればその研究室はすでに成長を止めた所と思わざるを得ません.大きな果実は大きな環境の変化を経る過程で生まれると信じています.だから,少なくとも現在は,我々の研究室で研究することが世界の第一線の仕事になっているということを意識してもらえるものに,名実共になっているということを自信を持って言えます.
一方で,研究室の共同研究に携わった人が独り立ちしたとき,研究室のテーマから離れることを希望しています.もちろん学位で携わったテーマは深化させてほしいのはやまやまですが,それは大学だけの論理です.新しい場所で,新しいことを,新しい人と始めてほしいのです.せっかくのチャンスを過去に固執することで失うことは往々にしてあり,それを人は順応性の欠如,過去の研究への固執,協調性のなさなどといくらでも悪く評価します.得たものはある研究の創造とアプローチで十分です.修了した人がお互いに共食いをしないように,全ての学生に異なるテーマを設定しているのですから,他に何かおいしいテーマは無いかなどと振り向いたりきょろきょろ見るひまがあったら,自分が今任されているテーマを深化させてほしいのです.私は,自ら新しく課題を創出できる人を育ててきたつもりだからです.スタッフも所属した学生の方にもこの点を強く希望して来ましたし,これからも希望します.(卒業生の方が読まれたら,今一度気を引き締めてもらいたいこと思っています.)もう一度書けば,自分でゼロから研究を立ち上げて行くことができる力をつけることが研究室の研究指導です.
これから,研究室に加わる人に希望することは,研究のオリジナリティ,プライオリティを尊重し,独り立ちするまでは素直に学習する姿勢を保つことです.そして,必ず自分の意志でここから巣立って行くことです.これまでは,その中だけで成長を疑似体験できる環境を造ってきました.しかし,もうそのお膳立ての時代は終わったと思います.自分が望めば研究室,専攻,研究科やりたいことは何でもできるはずです.私自信も,もう一度ゼロから新しい研究を築いて行きたいと切に願っています.だからこそ,私の研究活動をも尊重し,切磋琢磨して独り立ちして行く研究者・技術者を目指す人に加わってもらいたいと思っています.そして,研究室を離れた先輩たちには学生の活動をエンカレッジし,陰に日向にサポートしてもらいたいと思っています.決して自分が彼らの前に立つのではなく!

5.おわりに 

私が目指して来た研究室は,"At the Helm"(研究室運営マニュアル)に書かれているようなアメフト式の職域分業を重視したアメリカの実験系研究室の一見まともに見える構築論では求められないものです.少なくとも,我々の研究室は,研究テーマはPIが設定し,それを個人の能力を高めるためにもちいつつ,新しい方向性を与えます.研究推進の個人の能力を高める中で,さらに研究の深化を求め,課題設定能力をつけてもらいます.これから研究室に加わる人たちは,これまでのヒストリーの先で活躍する人です.アプローチに全く新しいことはおそらくありません.それを意識して頂きくことが重要であると思います.研究室の運営は机上の空論ではありません.誰一人の教育研究に失敗は無かったとは言えませんが,反面も含め結果的にはそうなっていることを嬉しく思っています.
(補遺)研究には早すぎると言うことがあります.どんな研究にもそれが認められるための周囲の知識の高まりが必要です.「あなたの研究は少し早すぎた」と言われることこそ,研究者としての喜びではないですか?

東日本大震災を受けてのコメント2011

 2011年3月11日 14:46 に東日本大震災が発生しました.余りにも多くの命が失われた事に呆然とすると同時に,一瞬前まで夢に満ちあふれて幸福な日々を送っていた方々の,無念な気持ちを推し量る事もできません.亡くなられた方々のご冥福をお祈りし,被災された方々が一日も早い日常を回復されることを望む毎日です.このようなHPで書く言葉もありません.
 地震の前後で日本の多くの価値観が変化してしまいました.当然のことと思います.特に,直接に被災していない我々は,その後に発生した福島原子力発電所の状況およびその対策,さらに東北電力,東京電力の管内で発生した電力不足,そして,日本の脆弱な社会の露呈に直面しています.これらの状況は,今後の日本だけでなく世界の方向性を大きく決める議論の切っ掛けになるものと感じます.16年前に神戸の震災の後,関西から他の地域へ時間が経った後行った際に,ほとんど何も無かった様に日常が続き,政治も社会も鈍感な対応を続けた状況を目の当たりしました.今我々の側が,被災者から見られたらその状況にあるのであろうと思います.全ての事は映像ではなく現実であり,必要な事はその場でしか出来ません.従って,我々は本当に長期にわたってできることを意識して支援を行っていくことが必要だと思っています.神戸の震災の後の過渡状態にあったこれから世の中の支援が本格化しなければいけない時に,東京でサリン事件が起きてしまいました.そのことが報道,人々の意識から神戸のことを霞ませてしまった状況を見た覚えがあります.これと非常に似た問題の連鎖が今に有る様に思います.我々は,天災である震災の被災者への援助を続ける事が最も必要なことであり,興味にまかせた東京中心の報道に右往左往せず,その後の社会復興へ個人の利害と関係なく寄与して行く事が必要であると思います.
 本HPでは,今後時間を掛けながら,電気工学の研究者として説明すべきこと,システムの安定性から安全性への意識の変革,新しい技術が生み出す未来の形などを述べ,過去の延長ではないエネルギーに関連する研究への投資が今後の世界の中でもっとも重要であることなどを機会を捜して述べて行きたいと思います.
 これから社会を支えて行かなければならない若い人には,自分の成すべきこと,自分ができることを考え,日々その活動に対してまじめに取り組んでもらえれば大学の教育に携わるものとして幸いに思います.

システム論の前に (2011.4.24 暫定版)

ここでは 2011年3月11日の地震・津波による災害の規模やその被害を述べることが目的ではありません. 研究室への興味を持ってHPを訪ねた方に電気工学を専門とする者の理解を示し,今後の勉学の参考になればと考えています.
エネルギーシステムの分野にこれほどの研究者,企業,世界の注目が集まっている状況は,筆者の研究生活 (1980年代の大学での研究生活以後) の中で初めてでした.言い尽くされた様に,2008年のリーマンショック後の経済振興策としてアメリカのオバマ大統領のエネルギー政策にその端を発する.米国内の技術展開の提案,新しい成長分野への公共投資に多くの企業が集まりました.また欧州における環境意識と国策による環境ビジネスの高まりは,同じ方向を向いた公共投資を呼び込んでいます.これに合わせる様に,オイル資源国がその余剰資金が尽きないうちにエネルギー分野への投資を加速する状況も生まれ,世界の研究者が,言葉は悪いが猫も杓子も同じ方向を向いてしまった感がありました.そして,今回の東日本大震災が3月11日に発生しました.
昨今、意識の高い研究者、民間企業の開発が世界での研究の主導権を確保するためにスマートグリッドを中心とする研究開発の動きに敏感に,そして大きな方向性として対応していました.しかしながら日本の電力会社からなる業界は常に「日本の電力システムは既にスマートグリッドである」と主張し,「我が国のモデル」に価値があるとの認識を続けていたことをここで忘れてはなりません.ガラパゴスとしての特化と能力の一般性を混同し勘違いした認識ではなかったでしょうか.電気学会の大会,講演会を含め何度そのような発言を講演で聞き,新聞・雑誌で読んだか分かりません.特定の研究者グループの全国行脚の様な講演会,講習会があったことも新しい記憶にあります.それは本当であったか?この疑問に対して,当の講演者を含めて主張した研究者は,誰一人それに声明を出していません.特に学会で権威ある立場に有ったものとして、自ら精査し,率直に正しい研究の方向をを示すべきではないかと思います.また,電気学会も我が国で今回の一連の災害後の状況,引き続く原発事故による電力事情への対応に対して責任ある学会として,本来すべき説明や提案、さらには新しい方向性も出されていません.
加えて言えば,当学会の感度の悪さは,3月11日の震災後に大阪で16日から開催される予定であった全国大会を前日の夕方まで中止を決められなかったことにあると思います.本来関係者が全力を挙げて現状の危機回避に走らなければならないときに,二次災害、三次災害の対応当事者である企業人を含め,大学人が現場を忘れて実害の無い机上の絵空事の議論に集まることが何の意味を持つのか?これに対する疑問,正当な判断が無かったのであろうか?などの疑問が浮かばざるを得ません.もちろん判断は開催する場所が大阪であったことによる面が多いと思います.それは,如何に震災のリアリティが西日本に無かったかによるのかもしれません.その間に、福島では原子力発電所が致命的な状況に陥って行ったのは誰しもが知る所です.まず,学会としてすべきは,全会員に全力をあげて,自らの間違いを率直に認めた上で震災対応へ知恵を出し合うことを求める声明を出すべきではなかったかと思います.震災・津波は天災でした.しかし,その後に起きたことは天災ではありません.その当事者のいる学会であるという意識があるのかという思いがあります.少なくとも現在の発電および送電状況のデータを開示して電力会社が停電でしか対応できない現状に対して,即応して広く議論をするなどの行動ができなければ,今後この学会は特に電力分野に対して何の意見も正当性が得られないも団体に成り下がるのではないかと思います.後付けで安全な状況になってから調査研究する,意見するというのは今の時点ですべきことではありません.一方で, 所詮業界に対してその程度の力しかなければ,学会というものが単なる御用学会と再度言われても仕方がないでしょう.学問が安全な世界の戯言であるということをみずから認めたとき, 現実社会への責任放棄をしたことになり,平和な時を除けば存在価値が無くなると思います.現状の電力の学問は現場の経験則と方法論であり,学問のための学問ではないのですから.
我が国では電力分野の研究者は, 業界の主張に沿って電力供給側の立場で世界の電力システムの流れを見てきたと言えます.一方で,エネルギー問題に関して言えば通信分野や産業応用分野の研究者は,逆にユーザー側からの立場で研究を進めて来ています.しかしながら,業界の壁は大きいものです.電力業界は経産省,通信業界は総務省という縦割りの業界間の意識と権限は、所詮越える事は不可能というのが過去の歴史であります.これを越えることができるのでしょうか.今回の震災は日本のこれまでの社会の価値観,人の人生観を覆すものであったことは間違いありません.その中で、国費や権限の奪い合い後しか思えない動きも目につきます.それらに関係なくアカデミアが,震災復興の研究費確保に目のくらんだ会合を浅ましい下心を持って行うのではなく,純粋に正しい理念と方向性を正義を持って示さなければ、学問を生業とする人として存在価値がないのではないかと思います.表ではきれいごとを言っても,本質を知らない素人集団が暗躍する現状に対して,やはり学会を中心とする集団がきちんと対処する姿を示してほしいというのが私の強い気持ちです.
先日、某新聞の知己の記者に今回の電力関連の問題に対するこれまでの記事の問題を問いただした所,電力システムの安定性に対する認識は盲点であったといった返答がありました.これは,単に専門家と称する業界の主張をそのまま受け入れて来たに過ぎず,新聞も公衆を間違って誘導する大きな力には逆らえなかったということであり,それにあらがうことは難しいのでしょう.
さて,我々が何をすることができるか,これから少しずつ考えて行きたいと思っています.

なぜ60Hzの発電機が50Hzで使えないの? (暫定) 

こんなあたりまえの質問に,この2ヶ月だれも真面目に答えていないと思っています.またなぜ50Hzの領域に60Hzの交流を供給できないのかということを,今のシステムの維持や手法の問題ではなく物理として説明した記事や,解説を見た事がありあせん.上記の質問は,震災の後外部から電話で受けたものです.「もし混ぜたら何が起こるのですか?」と疑問をもつ方も多い様です.なんだか専門家と称する人が言ってるから無理なのだろうと思って考えない人が多いと思います.さすがに理系の人には混ぜたら問題という事ぐらいは分かっていると思いますが,それは利用者としての意識での理解です.
今のシステム・機器の設計時の前提がいつのまにか物理的原因と勘違いされて説明されているのが現状です.多くの電力会社の責任のある技術者はおそらく私と同じ世代ですから,大学で習った電力技術がどういうものであったかよくわかります.なぜかわからにけれど,たとえば発電機を海外から日本に輸入した時にそうなっていた,というものです.ご多分に漏れず明治維新後の日本の技術はコピーによって安く同じものを作るということでした(今我が国がアジアの国にクレームを出していますが,それは日本がそういう成功したビジネスモデルでのし上がったことを知っているそれらの国に,お前に言われる筋合いは無いということになるのではないでしょうか?).完成して輸入された製品を企業が分解してまねをする・・・なぜか分からないがコピーして作る時のノウハウとして残し,いろいろな設計時のパラメータがなんだかわけのわからないままに「XX係数」「YY度」といった計算上のまじないのように与えられまさした.こんなものが学問であるとはとても言えません.なぜなら物理がどこにも無いからです.工学は経験則の集約です.しかしその依るものは物理・化学で合理的に説明されなければなりません.そうすることで異なる容量,定格においても,スケール則が成立することから設計が可能になるのです.しかしながら,上述した分からない係数や設計パターンを多く知っている人がいわゆる専門家であり,それを超えて要求に応えられることが必要であったのです.従って.その人には何も合理的な説明できません.回っている発電機の多くでは,何故かわからないが適切と考えられるパラメータを設計に使ったものが多く有ります.これは多くの古典的なモータでも同様です.もちろん別の方法で理由はつけられています.
理想的な発電機であれば,物理的にはどちらの周波数も発電できます.できないのは,その設計製作に当たって,元々の分からないまま導入した原理に,後付けで効率が良くなる様に最適化した材料,係数の補正,さらには構造を積み込んで来たことで,前提とする機能保証が何も無くなるということに因るのです.その結果,機械的な破壊に至るか否かはやってみないと分かりません.今ではシミュレーションで多くの検討がなされていて問題が無いと考えられるかもしれませんが,もともとの検討項目が過去のノウハウであるに過ぎませんから,検討していない事象で何が生じるかは,その連成系としてのモデルが正しく無ければ意味をなしません.ですからシミュレーションも結局は過去に設計製作したものが考えられる範囲では問題ないという事しか言えないのです.定格という設計のための基準値に1.5倍の余裕を与える・・・なぜでしょうか? 想定がどこにあるのでしょうか?
要するに,そういうふうに作っていない・・・としか言えないということです.たとえばタービン発電機の様な長軸の回転機は,低い周波数で負荷を持って運転するとそこに共振周波数があって破壊するということなどがあり得ると予測できます.それは正しいものです.しかし,水力発電機には当てはまりません.即ち,できないというのは電気の60Hz, 50Hz の問題ではなく,どの周波数で発電継続するための設計をしたかによるということに過ぎません.このことを説明も無くあたかも理論の様にうやむやにし,根本の問題を理解していないのが現状だと言えます.原点に戻ってなぜということを経ていない技術は,その設定外で運用する時に何も保証されないということを理解する必要があります.安ければ・・・ということが生む結末は理由の無い妄信です.
さてさて,もう少し技術的な議論はできないでしょうか?

意外に(?) 弱かったエネルギーシステム 

東京電力の計画停電の話が出た頃,ある会議で某教授が「電力システムは意外に脆弱だったのですね」とおっしゃったことが記憶が残っています.問題点がシステム自身にあるのか,それとも人に有るのか,それらを全て含めてか・・・いずれにせよ契約者の誰に取っても電力システムであり得なくなったということは非常に重い結果でした.(電気事業法 第18条1項 参照)
教科書等で学習するシステムは,「無限大母線」という容量が無限大,慣性が無限大の発電機があり,個々の発電機の特性はその無限大母線という基準をもった一自由度の系です.つまり,絶対的な基準点と支えのある系として学習しています.この系の個々の動作は機械入力と電気出力のつりあいによってまず考え(平衡状態),もし何かが原因でその釣り合いが外れても(脱調,トリップ),無限大母線はびくともせずに対象の発電機だけのダイナミクス(過渡状態)を見れば良いということになります.相手が剛であれば引っ張っても押しても手応えがあり,それに応じて手加減ができますが,相手が柔であるとき,どこまで引っ張って良いのか,このまま押して良いのか?自分の手応えからは決められないと言えばわかるでしょうか.それでも留まっている時はそれなりに釣り合ってバランスを取ることができます.学生の頃,複数の同期発電機(電力システムの大多数の発電機)を連系(電力分野ではこの漢字を使う慣習があります)することを幾度となく繰り返して実験を行った経験から,こんな「ふにゃふにゃのシステム」の状態を維持することはそう簡単なものではない,ということを身を持ってしりました.その通りなのです.
さて,東日本大震災の直後の過渡状態でも発電機,システムの制御系は,立派に働いたと言えます.これは発電機の運動方程式が維持されたと言えます.電力システムが維持できなくなったのは,その前提となる負荷が要求する電力と発電可能な電力の量が乖離して解が無くなったためです.要するに,システムの前提が成立しないため,送電を切るしか送電の関係を構築できないということになります.これは,大容量の電源が消失するという中で,個々の負荷を供給側は制御する方法を持っていないために,そのやり取りを動的に開始する事が出来ないという結果に,電力会社として初めて直面したと言えます.供給能力が無くなった結果,もしそこで運転を継続したら生き残った発電機は脱調し,同期して電力を送るとが出来ないため,全システムを停止状態にするしか無くなるということを避けねばならないと考えたとき,停電を要求しなくてはならなくなってしまいました.
発電機から見た負荷に優劣や尊卑はありません.送電線路の向こう側にある見えない負荷のために,一様に可能な限り電力を送るのが電力会社の義務であり性です.それが技術者として電力会社に居る人の真面目な姿です.しかし,そのエネルギー単位の力学とその制御が,人,円,時間という経営の単位になることは民間会社としては致し方有りません.しかしその収益率を上げるためのシステムのスリム化が力学としてのシステムを脆弱なものにしたということであったら,「意外に・・・」というのではなく「起こるべくして起きた・・・」という表現にならざるを得ません.
電力システムは,設定した条件において想定される外乱が加わっても,入出力間の平衡を保ち,漸近的に安定になるように設計されてきました.我が国の電力システムが,震災の前までは安定したスマートなシステムだと言われて来ました.それが崩壊するとはだれも思っていなかったのでしょう.それは前提条件が失われないという限りにおいてである事を,我が国の一般の方が恐らく初めて知ることになりました.電力は,発電電力の余裕を持って,バックアップのルートを維持してシステムを維持しなければ送電できる状況を維持できない.ポテンシャルの高い方から低い方へ移動する電力が,遠方にある巨大発電所の大きな慣性を持った発電機の高いポテンシャルから運ばれなければならないという必然性は,物理ではなく,事業としての論理であるということを気づいた今,それを維持する事は今はあり得ても将来も許されるのかという問いに,我々はどう応えていくことができるのでしょうか?
電力システムは人の生命の維持に不可欠なシステムとなっています.水,空気,そして電力です.衣食住と安全を維持するために今は電力が無ければならないにもかかわらず,システムとしての安定性を安全性という観点で補強してこなかったことが,脆弱なシステムにつながったと考えられます.水の供給系も同様です.いずれ,電力が無ければ空気を維持できない状況がくるでしょう.そのときのためにも,今考えなければならない大きな課題です.最悪を避けるシナリオの確認,起こりえないという思いとは別に可能な対策を準備し,それでも対応できないことが生じる可能性とリスクを評価することが,我々が唯一できる技術的アプローチである事を,真面目に考えなければならない.
今,「安心・安全」を担保する事が役人の口癖になっています.「安心」は人の気持ち,「安全」は客観的な事実として同一視しないことが重要だと思います.(公的な会見で「ご心配をおかけして申し訳ありません」という表現が最近よく使われます.相手を思って言うのではなく自分のことに使っている場面が多く有ります.意識の倒錯があるように思います.)

技術の発展には必然性がある?(暫定版)

原子力災害の対策にロボットを開発したが廃棄した・・・という事実が紹介されています.が,平和ぼけと予算消化が命の官僚主義の成せる結果ではないかと思います.国の補助金で製作されたものは,助成期間が過ぎると引き継ぐことが出来ず,廃棄すなわち取り壊すことが決まりです.それは資産になってはいけないし,売却益を得てはいけないからです.大学もしくは国研だけが引き続き使用ができます.それが国民の税金をつぎ込んだということで,個人の有利になってはいけないという最低限 (?) のルールについて守っていますが,税金が無駄に消えているということへの何の説明にもなっていません.そういう論理のすり替えが非常にたくさんあります.研究は国民に資するものですが,その結果はいつ開花するかはわからないということが理解されていません.その余裕が科学,技術の懐の広さや深さを与え,いざというときにあらゆる可能性を検証する有機的な考え方を生み出すものだということは誰でも分かります.そういういざという時に応えるために準備させるのが税金の投資なのではないかと思います.しかし,市場経済の論理を研究に持ち込むという蛮行がまかり通る様になり,即効性と結果が要求され,望ましい結果を求めてはいないにしても,基礎研究に対して都合が悪い結果は出さないということがなされます.研究成果の全ての条件と結果を提示して,失敗を大きな成果として,後進のために正直に報告する.これが科学で基本です.それが発展につながるのです.その下住みの研究を無くしてどんな研究開発をしても,それはやってみましたということにしかなりません.開発した装置を他の検証を得ないうちに解体して処分する.こんな結果を真面目に信じることができるでしょうか?「捏造」ぎりぎりの行為です.論文になれば良い? いえ,なったら一生その責任を背負わないといけないのです.その答えがいつでも再現できなければならないということの責任は非常に重いものです.ましてや国民の血税で研究をさせて頂く我々に取って,評価を受ける義務の遂行は最低限まもらなければならないことです.
国による大学の研究費は,予算の単年度消化ルールのコントロール下にあります.大学が受ける助成金は予算の執行は毎年7月から9月に行われ,2月末には研究成果を示さなければならないことを繰り返します.その結果,双方の予定調和として既に結果が明らかなものを申請し,成果がでないうちに過去の成果で報告し,その達成を競わねばならない.こんなことを繰り返すから税金をつぎ込んでも成果が出ないのです.費用対効果という意味では,お金をつぎ込まない挑戦的な研究を自前で実施したとき程成果が出てくることになります.多くは,助成金が得られる様になった時点で成果は出終わっています.こんなことなら,過去の成果への補填として助成金を充当すれば良いのではないかと思うくらいです.これが技術を推進することになるとは思えません.政府の競争的資金と言いますが,ほとんどは募集時にほとんどの応募者が決められていて,それ以外は当て馬です.当て馬の申請を落とす事が審査の本質であることは必然です.このうようなことは我が国だけではありません.要するに研究はその時々の政治,流行に従って助成金によって誘導されていると言えます.結局は既得権益なのです.しかし,科学,技術の発展において予算の有無は,必然的な発展において雑音にすぎません.その時代に数々のノイズ的な外力があったとしても,必然的な知見は,世界で同時多発的に現れるということです.それに気がつくかつかないで結果的に市場を形成するか否かにつながります.予算を継続的に,カンフル剤の様に注入しても市場等は形成できません.必然性が無いからです.だからこそ,研究に市場メカニズムを持ち込むことなど元々言い訳に過ぎないという事です.
技術の発展には必然性があるかという問いがあったら,あるというのが著者の回答です.精度を上げる研究が必要な時もあります.そして,異なる分野が再度融合する時も有ります.それを融合させるのは人ですが,その潮が満ちた様に知見が高まる時があります.それは個人に依存もしますが,今回の震災の様な外的なトリガによる場合もあります.その中で,何が本物かということを見出せる能力が必要です.机上の空論は権威を維持するために理論武装します.そのことが,障壁になることもあります.一方で客観的に応用や具体化まで見通していけなければその潮の流れからは取り残されます.次のタイミングはないでしょう.それらも,結局最後に流れが出来なかった時に「あ,障壁を越えるだけの成熟が無かったのだ」と気がつくものです.一方,教育も面白いものです.なぜあのときあの内容を学習することになったのかと思う程,今の仕事の本質を突いた刺激を受けた事を後で気がつくことがあります.それらが一人の中で結晶化するというのは,その人に取って必然です.ですから,発展させる技術を引き出す人は,その生涯で必然として辿り着き発展させるのだろうと思います.他の人にはできないのは必然がないからです.教えた側が今の結実を知っていた訳でもありません.
総体として,技術の発展は必然性があります.そのときまでの多くの失敗のデータ,検討のデータ,机上の空論と捨てられたもの,過去には技術が伴わず捨てられたもの,それらがあってこそ次の発展につながることを,科学技術に頼ろうとするものは知らなければなりません.成功はその蓄積の中から選ばれた人が拾い上げて来るものです.どんな些細な発展にも必然性があります.だから,良い結果も悪い結果もきちんと目の前に出して評価して次に行く行動を我々科学技術に携わるものが行わなければならないのだと言えます.それを止めたとき必然性は生まれません.
当たり前のことしか書いていません.しかし今の世の中を見て下さい.どうなっているでしょうか? 何かを守ろうとして,何かを決定して実施し,それが多くの人の命と引き換えになった過程があったとしたら,絶対に結果と言ってはいけないものです.この結果を導かない様に責任を持たされ,地位や利益を得ることが許されたのだと思います.人の営みとして既に走り出したものを止める事はほとんど不可能です.しかしそのことが結果を正当化することはありません.いまできることは,反対の意見を消した意見の評価,そしてその方法論,さらには決定者の責任について,歴史の経験を見返しながらどうすることが正義かを考え抜かねばなりません.人に責任を問うのではなく,そのプロセスを問わねばなりません.これが必然となって新しいレベルに社会や技術を持ち上げることが今唯一意義がある行為であり,その結果新しい技術を生むのであれば,過去の成果によって繁栄を享受することを許される唯一の道であろうと思います.
技術は社会が必然的に生み出す道具なのでしょう.それが社会に取って,良いものでも悪いものでも.そこに今は科学の論理による正当性がなければならないというのが重要なポイントです.

行かなければわからない現実 

タイトルが全てです.それ以上の言葉は無いと思います.




年初の挨拶2011年版

2011年版 

毎年年末年始にこのページを書き換えて,早くも7年目になる.過去の記述どうしの整合性が必ずしもあるわけではないし,記述が矛盾しない訳でもない.我々の研究室で実施される研究活動に参加したい,参加している,そして巣立つ方に意識してほしいこと,また参加されなくても京大の電気電子の学生に知っておいてほしいことを書きためたものである.例年,他大学や学内の教員の方から「読みました」と言われるが,それは意図していないことであることを最初に述べておきたい.本年はタイトルを「我々の研究室に興味を持つ方へ」と変更している.笑い話は,私自身が書いていることを,ある方がどこかの先生の意見として私に述べられたことである.

1.はじめに 

多くの日本人が,研究というものが古来の武道,芸道のような型を主体とする道であり,その道を究める人が学者とよばれる種族であると思っているという懸念がある.確かに一見そのような側面があることは否めず,分野を極めた学者・研究者が述べる言葉が,熟慮された言葉としてTVや雑誌で取り上げられることが多いが,専門と異なる分野への発言,特に政治,経済,文化論への発言が求められ取り上げられるのは適切なことであろうか.年齢相応の経験を経た人であれば,研究が外部の評価を受けたり,研究が認められる様になったからといって発言が変わるものではない.正しい意見は,そのような個人の状況に関わらず通らなければならないし,間違いは否定されねばならない.それを評価が裏打ちする様な意識で見る今の風潮に,社会だけではなく個人に対しても危うさを感じる.我々研究者が述べるべきは,研究に於ける経験に裏打ちされた言葉だけであり,もしそれが他の世界で意味をもつとすれば,聴く側が何らかの触発をされたということに過ぎない.その発言をした研究者が全ての世界に熟達して極め,責任を持つということではない.本ページの記述も同様である.

2.学ぶこと・教えることについての考え

文科系,理科系を問わず,大学の最終段階で,研究室もしくはゼミに所属し,その指導者の流儀で研究のアプローチを学習する.このことが,それまでの試験を中心とした勉学と大きく異なることである.昨今SSHなどで研究のまねごとを高等学校で履修してきた学生がいる.テーマを与えられ,可能な手段で調べ,そして検証する.自由課題の範囲であり,研究と称することによってモチベーションを上げることがなされる.こういうことは,本来小中学校の夏休みの自由課題で習得してくるべきことであり,カリキュラムとして行うことではない.もともと学習意欲の高い生徒が,高校のカリキュラムだけでは満たされず,その知的好奇心を満足させる機会として,指導の下に行われている.このような活動はその対価を求めずに自発的になされてこそ意味がある.おし着せの疑似体験を文部科学省の予算で指導することが今の教育の歪みといわずして何であろうか? 生きる力を付ける教育? こういったことを考えることの貧困さには,思ったら何でも実施できる責任者の結果も想像できない姿が思い浮かぶ.
 規範があり,対価が有り,例があり,そして結果があるもの,そんな活動が研究であるはずが無い.しかし,そのような指導を一旦受けてしまうと,刷り込まれた意識をぬぐい去ることはできない.リスクを取ることも出来なければ,冒険もできない.安住してゴールがあり,そして手法も評価基準も有る様な研究が何処の世界にあるのかを,指導する側が考えなければならない.研究は,いつか自らの科学的能力のレベルの限界を超えて,どこがゴールか分からない目標に向かって走り出し,それまでの人類が辿り着けなかった地点に届こうとする行為の一つである.野球の某選手がアメリカのチームに行く時に,リスクを伴うことで評価される行為であるにもかかわらず,契約書に成績が上げられなかったときの待遇を書き込むことに必至になっていた記事を思い出す.その前にその選手はプレーヤーとして存在できないではないか.
 この同様の本末転倒なあり様が,現在の初等教育から高等教育への流れの中で生じている歪みの典型例であると私は思う.そして,研究とは何かを知らずに「研究」として「教育」することの危険性を自覚する必要がある.研究を知らずに研究を教えることの出来る教育者とはいったいどういう存在なのか? 同時に,人に教えることは生半可なことではなく,知ったかぶりで人に教えるふりをすることはできない.また教えるということを考えず研究指導する研究者とはどういう存在か? これもまたまかり間違えば,人を無視した結末につながりかねない危険性を持つ.大学の教員は研究者であり,研究者であると同時に教員である.
 研究を究めたとき,その手法論や思考法が人に手がかりを与えるということは理解し得るが,決してその手法で人を導くことはできない.人を見出し,人を育み,人を会合させ,人に自らを助くる自信を持たせ,我がことを従とする,これが教授たる者の有るべき姿と信ずる という考え方を読んだことがある.まさにその通りで,いずれが欠けても教授たることはできない.仮に成功体験から自分の手法・流儀を押し付けたとき,あとのものはそれを守るべき流儀と勘違いする.研究とは逆でその流儀を破る所から始まらなければならないし,教える側はそれを受け入れ,研究に我が我がという意識を放棄しなければならない.

3.教えることと学ぶことの関係 

研究室,ゼミで指導する側ができることは,特定のテーマに関する科学的,技術的アプローチの伝授に過ぎない.実際の所テーマは何でも良い.その中で人として対峙することになる.大学の指導者である教員が完璧な人間でないことはだれにも明らかである.しかしそのことを忘れてしまいかねない状況がそこここにある.たとえば,マンネリ化した研究の中で井のなかの蛙と化し天の高さも見ないとき,研究とは関係ない役職で人を動かした時,器と年齢と役職で大きな研究費を動かす立場になった時,そして自ら新しい研究領域を切り開くことを忘れた時,自分が教える側と思い上がった時 などなど.これらは,研究者が勘違いして尊大になってしまったとき落ちいる陥穽である.これを避けるためには,結局学び続けるのは,指導という機会を得,新しい人に接し,新しい知識に出会い,そして真摯に議論を重ねる研究者自身である.つまり,学ぶ実践無しに研究指導というものは成立しない.我々はそのために勉強をし続けることになる.教えるために勉強する.勉強し,考えそして自分として理解した道筋で人に理解を促すことが教えるという活動に動的な影響を与える.教える行為に出たとたん自分の未熟さを理解する.そして,未熟さ故に学習し,そして考え,新たな道筋を探る.このダイナミックな動きが定常に収束してしまった時,「教える」側の立場は保てないと考えている.
 一方指導を受ける側は,何か学ぶものを形として期待してはいけない.学ぶ対象は,同じことを指導されても受け取る側によって変るものであり,その結果が良くも悪くも元の内容と変っていく.このことは内田樹先生の著書(「先生はえらい」)にも述べられている.突然変異の様にやり取りの中で同じ課題でも見方,扱い方が変っていくことで新しい考察に至り,今までに無い他の分野との融合を生んで行く.そのことを楽しむことが自ずと双方の学びにつながる.同じ講義でも毎年変っていることを教える側か意図する以上,受ける側も重ねて講義を聴くことで新しい理解を生む.これは単位を取れたら終わり,あるいは単位にならなければ聞かないといったこととは全く相容れないことである.
 このような両者による相互の刺激と応答のやりとりを生む環境が生まれた時,研究室で相互に学ぶことができ,研究が成り立つ.この勉強の終わりが卒業,修了であり,設定のための初期設定が研究室配属である.この短い期間でお互いにリスクを取り挑戦できる環境を維持したいと願うのが研究室の管理者としての望みである.しかしいつまでも同じ学ぶ環境に居ることはできない.必ず終わりがあることを意識して,その時を相互に大切にすることが学びの原点だと思う.また,受ける側として必要としなくなった時,研究室から旅立たねばならない.なぜなら,研究室はつねに新しく加わる人のために変って行くものだから.

4.世の中の動きに左右されないこと 

昨今の経済状況を反映して,即効性があり,製造分野を強化するためのもの作りへの志向を強く打ち出した研究が求められている.日本のこれまでの技術面の強さは,単にものが作れるからではなく,その技術を支える観察,経験,精神性にあった.にも関わらず安易な職業教育という名ばかりのマッチング訓練を高等教育と位置づけている.はっきり言って,現在の多くの大学の教育レベルは,20年前の高校レベル,大学院修士は同じく20年前の大学学部レベルという印象を受ける.学問内容の程度ではなくその指導と学習というレベルに於いてである.大学の教育がそのカリキュラムで評価されることになっていること自体,既に自ら大学であることを放棄していると言えないだろうか?果ては,大学院の試験問題作成や受験講習を請け負う予備校があったりする.従って,これらの教育課程を終えた学生により研究開発を行うという企業は,既にある知識を学習して適用するということ以上に教育を受けていない者による非常に浅い,レベルの低い活動になることを理解しなければならない.企業はそのため大学名による推薦ではなく競って広く人を募集し,取り合うことを提唱し,webやマスコミを通じてあおる.どこにも正常な目がない.大学生自身が自分のレベルがどこにあるかを全く理解していない.本当に自分が大学卒と言えるだけの技術力を持っているのか?就職活動のプレゼン能力で勝ち残っても修士1年を終えただけの人に研究を託せると信じることができる論理が企業に有るのか?この風潮の影響は20年ぐらい後に現れるであろう.同じく博士課程の軽視は,英知,技術への軽視であり,その様な企業は淘汰されるのは必至である.また,高等訓練,再教育を許さない今の企業風土は,人を消耗品として使い捨てにする消耗戦に明け暮れる弱い軍隊組織のもので,全く戦略がない.人を育むことを忘れた社会でできるのは薄っぺらい技術論になる.
 政府がイノベーションと称しているものは,お題目だけ上げればなんとかなるというものではない.グリーンイノベーションに関しても,日本が過去20年電気エネルギー分野でどれだけの研究者を育てたかを問えば分かる.ほとんどの大学が電力,エネルギー分野を無くし,通信,情報,生命系に特化した結果,同分野の電気工学の博士課程修了者は皆無に近い.これは,経済の動きに左右されて高等教育の組織までいじることで目先の人気を得ようとした結果である.政府にも大学にも全く長期的展望が欠けている.このような場当たりの教育が,日本の技術の基礎力を失わせてしまったと言える.企業は自ら人を育てることを忘れて大学の組織に介入し,そして景気の動きとともに育てた人を放棄している.一般に今の大学の修士レベルの教育では,分野が異なれば技術者が他分野で活動することはほとんど不可能である.経験・知識に裏付けられない,現実の物理を知らない者が取り組んだところで,表層的な技術の輸入を越えた仕事はできない.電気を触ったからといって電気の学問ができるわけではない.本当に必要な人は横展開できる学理を勉強した技術者,研究者である.そのことが,表面的な人の訓練で置き換えられると考える企業も政府もそして大学も自らの役目を放棄した集団と化している.就職が良いから,景気が良いからと言って,本来の学問の系譜を軽視して人を送り込み占領して喜ぶ様な行動を慎むべきである.お先棒を担ぐ様なことをする大学には将来の希望は持てない.
 日本のガラパゴス化という言葉がある.それが何故悪いのだろうか? 今の日本の科学技術政策は,全ての研究を同じ方向に向けさせるという非常に弱体化した状況を作り出す.ガラパゴスであることが科学の多様性を生み,柔軟性を生む.科学技術政策であるのであれば,新しい経済分野を作り出すだけの気概が必要である.京大はもとよりそういう大学である.しかしながら,現状で成果が上がりやすい分野への投資の追認しかできない.世の中は効率がわる組織を切り崩して,場当たり的な組織の改変に明け暮れている.今やるべきことは,どの国にもない,しかも深い技術論,哲学に基づいた新しい科学への集中ではないだろうか? それが20年後の日本の将来を決める.流行を追っただけの政策が日本の科学技術を衰退させたこの20年の結果の反省の無い政策は,あらたな20年の不振を生むということをもう一度考えねばならない.具体的な方法論の無い政策は精神論で逃げ切り,体勢を決める者が責任を放棄しているような状況で,学生や教員が右往左往することを止めなければ,結局何も残らない.人気が無くなったからと言って主義の異なる学問を消し去るのではなく,より高い次元に学問レベルを上げる機会と考えるべきである.それを忘れた時,いわゆるブームが来てもだれも何も対処できない浅い古い業しか残っていない.今そこここに見えるのはまさに若い羊の皮を被った年老いたオオカミといった姿である.そのことが技術革新を阻害することを今一度考えるべきであろう.このことは個人の勉学,大学のあり方,国のありかたに共通の問題である.
 研究は元々何もないところに道をつけるものであるはずである.今の技術政策はすでに獣道や私道ができたところに,無理矢理ハイウェーを作り,建設費用やそのあとの車の量を目論み,作業者を供給することを研究と考えている浅ましいものではないか.科学技術の進む道は太さを競うものではない.その道が何処にでもつながるネットワークとしての重要性であるとき利便性が生まれ新しい道を生む.世界的な投資を生むのは,大きな変化を生じる時のみで,その時に全てのネットワークが太くなる訳ではない.太くするのではなく,通らざるを得ない道を造るべきである.
 このような当たり前のことが忘れられている.世の中の動きに左右されない透徹した考え方を大学にいるものがやらずして誰がするのか.責任をもつ人に聞いてみたい気がする.同じことをパブリックコメントで書いた記憶がある.どうせ主たる責任者に届かない意見では有るが,個別の現場の責任者さえも同じことを言い活動している現状を見るにつけ,憂えざるを得ない.

5.新しい研究とは 

何も勉強もせず,新しいことのみを目指すことを唱え推奨する指導は浅はかである.オリジナリティとは何かわからずに何かオリジナルを捜す,これが最初に述べた疑似研究の問題点である.まずは習う,そして慣れることが不可欠であるにも関わらず,成果(工学では効率や最適値)を求める要求をし,表面的なまとめの奇麗さで評価することに何の意味があるのであろうか.自らの知識と研究の先端との距離を認識して,それに触発されて勉強することができればそれ以上は望む必要はないのではないか.根本の原理やメカニズムを理解せずに日々何が新しいかだけを追いかけている姿勢から新しい科学が生まれることは無い.人の研究に必ず「何が新しいのですか?」と尋ねる人がいる.それを調べていくのが研究ではないか?最初から分かっていたらそれはその人の仕事ではない.質問をする側の軽薄さ以上に,そいういう風潮のお先棒を担ぐ研究者が大学にあまりにも多いことが問題である.
 仮に1990年の論文の成果に今自分の知識と設備だけでたどりついた時,それを既存の結果と切り捨てるのは正しいだろうか.その作業の繰り返しが,自らの知識レベルを上げ,さらには新しい工夫へとつながる入り口ではないだろうか.このような習い慣れることを経ずにオリジナルという道はない.自分の力で人類の科学史の1990年代の成果までたどりついたことを喜び,それを自信とすることがまずは必要ではないか? 科学知識レベルの上昇が学生のレベルでも到達を可能にするのは,すでに回りの知識がその成果を取り込んで成長し,内在的に辿り着ける可能性を高めているからである.しかし,それでも結果へのモチベーションやアプローチが異なり,その後の展開にも大きな違いが生まれる.今持てる知識で,再度過去の結果を見直して行くことがまずは新しい研究への入り口である.原点に戻ってそのオリジナルの仕事をおさらいすることは,稚拙に見えるが最も最先端に近い道であると思う.その時間を持てる,またその時間を待てる環境を維持することが研究室の取るべきことである.その中で行くべき方向が見えた時,全てを投げ打って集中して取り組むことができる人のみがオリジナルな研究に辿り着けると信じている.プロジェクトだからと言って表面的な成果に終始したら何も残らない.その出口と同時に原点を掘り下げる気概無しには何の意味もないと考えるべきだろう.

6.学び始める人へ 

まずは盲目的に信じてみることが必要ではないだろうか.先輩を見て1年後の自分の姿を思い描きながら,習って慣れることを最初の仕事で始めて欲しい.課題は何であっても同じであるが,できるだけ入りやすい所から入れば良い.やはり大きな成果が得られる入り口は狭く厳しい.それを敢えて選ぶリスクを取れる人は挑んでみてはどうだろうか.議論ができる信頼関係を築くには,助走として勉強会,研究会などで,自分の足りなさを躊躇無く先輩同輩に晒していく勇気が必要である.その姿勢が吸収する力に変る.知識を吸収するには思いっきりその入り口を開け,深呼吸できる様にしなければならない.自らを虚飾でカバーして口を閉ざして息をひそめる限り他から何かを学ぶ段階には達しない.ウォルトディズニーは,夢をかなえる秘訣は4つのCに集約されると書いている.それは「好奇心 (Curiosity)」「自信 (Confidence)」「勇気 (Courage)」,そして「継続 (Constancy)」であると.それらは一人では達成できるものではないなら,訓練を人に受ける潔さと素直さが必要だろう.そして,テーマを渡す側がどんなことを考えて渡すのかを理解することは助けになる.それが次の点である.

7.教える始める人へ 

若い人の研究への姿勢は,最初に自分が指導を受けた先生で決まると言って過言でない.その指導者のコピーになるところから始まる.場合によってはしゃべり方,立ち居振る舞い,服装の趣味にまで至る.それはひよこが最初に見たものを親と思うことと通じる.だからこそ,我々は自らを律し,正さなければならない.特に若い学生と接する機会の多い,博士課程学生,若い研究者はそのことを忘れてはならないと思う.若い時に受けた影響は,一生抜け出すことができないほどのものである.指導者となる者は,これから研究を始めようとする若い人にコピーの姿で対応することから卒業しなければならない.コピーのコピーは所詮本物の姿を写し取ることはできないからだ.必要なことは,人を見出し,人を育み,人を会合させ,人に自らを助くる自信を持たせ,我がことを従とする,それを学ぶことだけである.そのためには教える側も自分の足りなさを知り,曝け出し,修正しなければならない.  たとえば,自分がやりたい仕事で自分が結論への洞察に至っていない仕事を,中途半端に自分より若い人に委ねないことである.これを指導と勘違いする人が多い.一見「一緒に研究しましょう」というフラットな指導に思える.果たして,研究として渡したため,決して自分が主となって仕事の方向を決めることはできないことがストレスになり相互に感情的にトラブルを起こす.またむやみに仕事の遅さを責めたり,違う考えを議論の中で潰すことにもなる.その結果必ず若い人が潰される.自分が本当にやりたい仕事なら必ず自分一人でアフター5に行うべきである.所詮どの課題もその原点が本当に自分にあるのかどうか,これを自分に問う冷静さが欠けた状態が若さではあるが.若い有能な研究者は思いがけない考えを持ってくる.その時,自ら一歩引き,若い人に自信を持たせ,自分を従とする潔さが持てなければ,上に立つべきでない.自らのテーマを如何に複数持ち,それらをスパイラルに伸ばしていくかが資質として問われ,可能な環境を選択して行かなければならない.このことを常に確認することが必要である.
 さて,今年はここで終えます.読まれた方の今後の参考になれば幸いです.

年初の挨拶2012年版

2012年版 

1.はじめに 

昨年は大きな震災とその後の福島第一原子力発電所の事故があり,とても新年を喜んで向かえることが出来ない人が多くいることを意識せざるを得ない.それは神戸の震災は新年を迎えた直後の浮かれた気分を吹き飛ばしたことも思い出させる.1994年に在外研究でアメリカに居た時,ロサンゼルスで地震が発生し,そのニュースで明け暮れた後サンフランシスコ経由で帰国した.そして1年後の1995年の同日に兵庫県の自宅で地震に遭遇した.幸い自宅はひびが入っただけで,帰国後荷物がほとんどなかった自宅ではものが落ちること等の被害は無かったことが幸いした.そして昨年,学会の研究会をお昼を取った後に辞して企業との打ち合わせで浜松町のビルに行き,1階受付に居た時に揺れが始まった.その揺れの長さは神戸の比ではなく,また激しさはそれ以上であったことを記憶してる.過去の経験から,緊急時にどのように判断して対応し,何を優先するかということを常に考えておく必要を感じて来た.多くの場合希望的観測で,噂や未確認の情報の中で動き出すことは危ないが,情報に頼ることも不可欠である.しかし現場に居ない人の判断,経験の無い人の指示または情報は,何の根拠も無いことが多いことも事実である.私が居た東京でも情報は訪問者には全く届かず,その場の人の様子や判断に従って状況を見るしかなかった.そして何万人の帰宅難民が一斉に動き出した深夜,早朝の様子も良く覚えている.まるで映画で見た様な光景であった.我先に道を急ぎ,車道まであふれた人たちは,暴徒となってもおかしくないほどであった.現実は,いくらテレビで見ても分からない緊迫感があった.まず事が起きたとき,自己の状況を冷静に判断し,短期と中期の行動の判断を同時にできるかが最も重要となる.
 我々が生き抜くために動物的に必要なことは物事を見て本質を見抜く感性である.それは研究においても同じである.

2.直感として 

文科系,理科系を問わず,大学の最終段階で,研究室もしくはゼミに所属し,その指導者の流儀で研究のアプローチを学習する.この研究室選びは皆さんは何を基に行っているのだろうか?入学して多くの講義を受け,その講義の厳しさや先輩の噂,さらには先端分野かどうか・・・そういったことを総合的に見ながら決めているのだろうと思う.だれも本当に研究を知っているわけでもなく,その教員の性格を本当に知っている訳でもなく,その分野の将来への深い洞察があるわけでもなく,そして今自分が取る選択が正しくなかったらどうするかということへの想像もほとんど無い.過去にはじゃいけんやくじ引きで決めて来た研究室選択を京大の電気系が止めてもう8年が経つ.それは表向きの理由はともかくとしても,過去のやり方が成立しなくなったのである.偶然に勝ち残ることを恣意的に操作する者が現れ,自らの研究への直感や思いではなく,非常に質の悪い行動が目立つ様になったからである.学問的にはどの分野でも一旦抜け切ると横への展開は非常に早い.そのことを誰もが信じられないことが今の学生の理解の限界なのかもしれない.要するに,直感の目がその分野の先まで通らないのである.
 生きる直感を研ぎすますことは今の受験勉強では残念ながら養われない.経験の無いことは誰にだって想像できない.しかし,その準備を十分することが凡人のすることである.想定外ということばが昨年は多用されたが,想定しないことが既に当事者の能力の限界であり,それをさも誰もそうだというように強弁を吐くことで,実は自分を守っているだけだということを理解することは,今なら誰にでも分かるのではないだろうか? 何かを指摘されたとき,「知らない」,「聞いていない」,「考えたことも無い」,「誰も教えてくれない」,そして「それは自分の管轄外だ」となる.あげくの果てに何も知っていないのに聞きかじりで指示をする.それは全てルーチンワークでこなすことしかできない人の言葉である.科学・技術の研究,開発はルーチンワークではない.そもそもそういう人がいる場所ではない.
 100の機会に1その通りになるかどうかの場合,だれもその人が直感が優れているとは言わないだろう.単にそのままを過ごせば何も変わらない.だから平常にその能力を高める努力をしなければならない.1が10になり30になるとそれはもう直感ではないかもしれないが,失敗した時にその失敗の芽を潰して次回に備えることも無く単にめげて同じことを繰り返すだけでは直感は伸びない.備えがその先への直感を育てる.役に立たないかもしれないが,文系,理系に関わらず一見関係ないと思われる分野を時間があるときに学習し,周辺への理解を進めること,そして遠くの分野の学会に出かける,異分野の人と会う,そしてばからしいと思いながらも懇親会でその人となりを見る,そしてお金を掛けても海外に出て自分の常識が通じないことを知る.こういったことが全て直感と言われるものを研ぎすますことになる.要するに,机に座って人の論文だけを読んで,現実の物理も見ず,手も動かさず,研究の責任を人に課すということでは直感など成立しないのである.すなわち例題演習となる.今は計算と言うツールはあるがどうだろうか? それは安全な場のルーチンワークではないか?
 リスクを背負った時に人は必死になり感性が研ぎすまされるのは,そのときに可能なものは何でも参考にする意思が働くからであろう.逆に言うと日頃は何も人の話にも,広い視野には従わないということかもしれない.乱世,動乱期に洞察に優れた人物が出てくると言うのも関係があるかもしれない.社会や自らが完成したと思った時点で,その人の感性は鈍り,リスクにまともに対応することもできず,判断を誤ることになるのは至極当然と言えよう.

3.ボトムアップで考える 

こんなHPで偉そうなことを書いてもお前は何もしていないのではないかと言われるのは覚悟している.何も知らずに偉そうな事を言った所で説得力は無い.一つの分野で某かの結果と言えるものを残した所で全てに洞察が通る訳ではないことは自覚している.確かに原子力発電所の停止で電力危機を迎えている現状で,本当に何を発言するかは難しい.ある意味で踏み絵を踏ませる様にいろいろなところからの要請がある.しかし,そもそも私にはそれを発言したり一方に組みすることの前提が無い.あるのは技術論としての正しさへの理解だけだろう.要請と言うもの自体が上からの目線である事が多く,本当はどうなのかを正確な方向性を示せるだけのものなど期待されていない.多くは結論ありきである.だから自らの能力の範囲内で提示するものが何をこの先にあたえ,何の研究を必要とするかを示し,その中で示せる将来を提示するというボトムアップの視点しか私には提示できない.
 昨年新聞に研究開発が載った.これは既成のシステムにゲームチェンジを求めるものであることは明確で,そのために現状で直接支援できないと公言する企業もあった.こうやって何年も技術が潰され,お蔵入りになって来たことか.そしてそれが技術と人の衰退を招いて来たかについて当事者の反省は無い.今から人を恣意的に作ろうとした所で技術力の低下は元には戻らないのである.これはエネルギー分野で特に激しく,日本だけでなく世界中で同様な状況にある.物理を扱うシステムに永遠は無い.そのことを考えると常に成長しなければならないにも関わらずやって来たことはマネーゲームと既得権の維持の戦いだけであった.人や社会の成長にはゲームチェンジが必要なのである.
 何ができれば先の構図が確実になるかというキーテクノロジーを捉える感性は,ボトムアップにしか生まれない.描いた構図に適した技術を捜すことに慣れすぎた我が国の現状は,結局は効率と経費削減のみで,新しい構図や世界は描けないものとなって来た.それは効率とは別のところにあるからであろう.社会が変わる時にだれがその効率を考えるであろうか? 体制が替わる時には効率などなく非効率の極みでしかない.これはまるで効率を求めるという意識で洗脳して現状を維持することだけに人の目を向ける大きな意思があるとしか思えない状況である.開発国はコピーからはじまる.そしてコピーの先に来た時に何を見るかである.日本が経て来た過程と同じ経路を,韓国,中国,そしてアジアの國が時間をずらして走っている.コピーでは指針がない.そのことを自覚した日本が行ったことは,過去には軍事化(スペクトルの局在化)であり,また世界の工場化(エネルギーの集約)であり,そして海外移転(集約したエネルギーの拡散)である.同じことが他の国で見られることを理解したら,国としてどうやって対処していくべきかという道筋は明確であろう.次にあるのはエントロピーの制御しかない.それが新しいエネルギーのフローを生む.
 教育に効率はない.非効率な受験勉強を効率的に行うことは既に矛盾している.非効率に意味があることを理解せず,教育現場を知らずに組織をいじり,カリキュラムをいじり,そして形だけ作るのだろうか.トップダウンの改革など何の意味も無い.手を染めて汗を流さないものが研究の成果で教育は述べられないし止めた方が良い.やったところで自己利益誘導にしかならない.多くの教員たちが平等に育てあげた学生がいるからこそ,将来のいろいろな可能性が生まれ,あらゆる分野への直感が育つのであることをより深く理解しなければ,大学自体が専門学校化する.
 さらに教養教育を博士課程に課する試みは果たしてどうか?彼らが将来の職を悩む時に果たして本当にHowtoでない考えを求めるだろうか?また職を保証してはたして教育ができるだろうか?リーダーは上に居るだけでは,結局は間違った教育をすることになる.ボトムアップでものが見られないものに人はついて行くはずがないという矛盾を,本当に制度が解決を与えるのだろうか?そもそも,過去が良かったと言う年寄りの思い上がった制度の導入に過ぎない可能性がある.当時はそれほど専門性は無くても基礎力のみで乗り切ることができた.今はどうだろうか? 今のボトムアップのレベル認識ができていないのではないか.過去の成功事例は決して良い規範ではない.そのままの延長などないからである.そこに制度設計側の弱点がある.
 ドラマで「事件は現場で起きている」というのがあったが,なぜ多くの人は直接その現象,物理をきちんと見ずに情報と人への指示でなんとかできると思うのだろうか.要するに自分がセンスせずにコントロールできることは限られていると言うことである.今現実の技術と情報があってこそ先がある.にもかかわらずそれを封じて,既存の選択肢か稚拙な手法で手を打ってしまう社会にいつから日本はなってしまったのだろうか.ボトムアップで見なければ本当には変えられない.

4.無限から見ることができるか 

論を転じて,無限について考える.数学,物理,工学でも無限を一つの理想的な状態として考えことで理解を進める.その理論構築が大きな飛躍を進めた.しかし,現実の世界に無限はない.無限を保証するために時間を無限に飛ばしてその収束を見ると言う考えにはなじみがあるだろう.その理論に意見は無い.一方で,瞬時瞬時を追いかけてもそれは何も分からない.必要な世界は,局所と無限の間にあるメゾな領域(マイクロとマクロの間)になるのではないか?
 安定性という議論は工学では習慣的になされる.たとえばシステムの特性が無限に離れた状態においても線形性を示すことを前提に,線形行列の固有値を議論して安定性を論じる.非線形なシステムでは,平衡点のまわりで線形化し,その仮定が成立する微小変化 ε の範囲で安定性を論じる.そして特性が線形性を失うとき,外乱に対する応答性で議論する.明快な説明である.ただこれらは,有限のメゾ領域に対して具体的な知見を与えうるのだろうか?古典的な工学分野はマクロな理解ですべてを押し切ってきた.時間でもせめてミリ程度の話である.理論の運用者がその領域だけの技術が生き残れる世界で他を律する感覚を保持しすぎていないだろうか?
 電力が60Hzまたは50Hz で議論し,その周期を基準とする実効値の議論は確かに既存のシステムとしては十分であった.現場では直流による瞬時の変化を求めている.それなら対応も有りそうなものにも関わらず,それはユーザーの責任として,整流回路とコンバータ,インバータで処理を求め,自らは効率が良いと主張し,そこだけが安定する世界を維持することを生業とする.過去にインバータが多用されて高調波が問題になった時,その対処は需要家に求めた.つい20年前のことである.高調波でキュービクルのコンデンサが焼けたときも同じである.要するにその時点でネットワークの本来の姿を忘れ,自らのシステムへの接続ルールで乗り切ろうとしたと言えないか?これは世界の新しいネットワーク開発へのチャンスであったはずである.それは無限とは関係ないが,自らの時定数の範囲でのみ議論し,それ以下も以上も許容しない世界を作っている.
 無限に安定と言うことが言えないことはだれも分かっている.だから信頼度と言う有限確率適用分野がある.システムのサブシステムが故障する確率を上げ,それらが直列,並列をしたシステムの故障確率を議論する.いつのまにかそれが無限確率密度の議論に理論上置き換わっている.数字に何の意味があるかを見る方が理解しているのだろうか?発生確率が一億分の1と言ったとき,だから大丈夫という論調で使うことが意味を持たない.たとえば震災時には全ての現象が独立事象ではない.それをきちんと説明しているだろうか?安定性は安全性ではない.そのことを技術者が間違って使っている.安定性を証明しても安全性を証明するものは無い.根本的に定義が異なっているからである.その際に無限というものが現実にないということを意識したとき,どのような手が打てるかを議論し,技術にしてはこなかったことを真剣に考える必要があると思っている. 
 さて,研究室を選ぶこともその人の一生の問題ではありえない.その期間で,何かをつかんで次のステップを踏むかの演習に過ぎない.直感にそぐわなければ問題を指摘し,その研究室の外にある考えを主張することも可能である.有限の時間で安定などないのが人である.その期間期間でどこまでステップを上がるかがこれからの生き方では無いだろうか? 安定したとき,あとは思考を止めてしまい「予期せぬ」外乱,内乱で崩れるしか無いのでは何も意味が無い.  

5.おわりに 

我々大学で教育に携わるものに必要なことは,サービスと犠牲かもしれない.自らの栄達を考えることは生きる上で重要であるが,それは所詮個人の満足であり,大学人としては別の問題である.大学の中で成果をあげそれを大学に還元することが正しいとするのが今の風潮である.しかしそれは瞬時的なものに過ぎない.大学の由来にも有る様に,古今東西の広い知識の集約された場でなければならない.教育はその瞬時の定まらない技術でなされるものではなく,時間によってフィルタリングされた本質を新たな知見で見直すことの繰り返しである.だから殆どは無駄になる.ここには効率は無い.
 学生が自ら立ち上がる機会に正しいと思う答えを示すことを教育と勘違いする若い研究者が多い.確かに全ては早く効率よく済む.しかしそれは教育ではない.一緒に悩み,一緒に時間を費やし,手を尽くし議論することで自分の時間を失っても答え等無い問題に挑むありかたを伝えることが最も大切なことである.だから2年で学位が取れるなどという保証などない.それは演習であり,学位ではない.こんな間違ったサービスを行ってはいけない.
 若い人が新しい理解を示したとき,指導者が自分の主張を超えられたと感じたとき,潔く踏み台になることができるかどうかが指導する者に問われる.それがサービスであり,犠牲である.同時に指導者が踏み台に回っていることを若い人も理解しなければならない.そのテーマに対して一生責任を持ち,決して放棄できず,後戻りができないものであることを知らねばならない.人のサービスと犠牲を糧に育った者は,その犠牲に対して責任を負うことになる.そして自らが犠牲に回る時,潔くその道を空けてもらいたい.所詮我々の継続のための期間は有限だからである.その葛藤の場が研究室である.
 有限の時間でできることをつなぎ,永遠など無い人類の今に寄与することの意味は何か?そんな答えを見出すことはできない.しかし,生命というものの可能性を自ら放棄することだけはしてはいけないと思う.夢や希望があったにもかかわらず途絶させられた命のことを考えれば.

年初の挨拶2013年版

2013年版 

はじめに 

2013年は,2012年末の総選挙の結果を受けて,なんとなく新しい状況が生まれるかもしれないと言うかすかな希望とともに明けたように思います.本年も,例年通り念頭に,研究室を運営するPIとして考えることを記したいと思います.これまた例年通りですが,対象は新たに我々の研究室への配属を希望する学生の方々です.幸か不幸か読まれる人に内部の人よりも外部の人が多い状況で,対象がぼけてしまう嫌いがあります.その点はご容赦頂きたいと思います.
 最近,大学の役職故に人前で挨拶することが多くなりました.その度に,言葉の少なさ,引き出しの少なさを感じ,場の中で言葉を意味を持って伝えることの難しさを感じています.議論や講義と言った目的の明確なものではなく,全て異なる考えの聴衆の心に少しでも触る言葉を発することがいかに難しいかを知ることになりました.

1. 教育について 

考えられる全ての方策があまねく全ての場合が同様の確からしさを持っているとき,その結果の行方は文字通り確率的です.ただし,それは観察者がその状態を観察し,作用する立場に居ないときであり,袋の中から単に玉を取り出すのであれば,何がおきてもおかしくないわけです.このような初歩的な理解が,政治や経済の議論できちんとされていないことを見ると,日本の教育レベルはいつまでも低いままであることを敢えて望んでいるかのような報道の状況と思えます.確かに人の持つ知識はその人が消えると同時にリセットされるように思います.しかし,社会としては蓄積されねばならないのに,いつも自分が新しいと思い続ける傲慢さは,人の成長を阻害します.昔既に知られていることを,過去の知見を知らずに再発見と称して,同じまま繰り返すことはできません.
 お札の顔として知られる新渡戸稲造は,学問・教育の目的を次の様に分類しています.1.職業のための教育,2.道楽のための教育,3.装飾のための教育,4.真理の研究のための教育,5.人格を高尚にすることを目的とする教育です(新渡戸稲造「教育の目的」).この分類は今でも変らないでしょう.今大学に入学する学生,在学の学生の多くは,その進学において,上記いずれかについて非常な熱意と野望を持って不毛な学習を続けられたというように思います.すなわち1および3を目的とされたのでしょう.その中で,各科目の内容の真理に触れることができた人は,まがりなりにも4に至ろうとされたものと思います.最後の5は,如何にも日本的な道を究める様な学問スタイルを提示されていますが,これはおそらく教育,学問の最終段階でのみ評価されうるものと思われます.従って,1から4が今大学に在学する学生の多くが持っている大学への期待そのものであると言えます.
 一方で,教員はどう考えているかというと,彼らは既に1から4を経た人たちであり,多くはその目的が,3もしくは4,そして5にあります.まさか2は無いと思いますが,意外にそういう側面があることもあります.ここに,学生と教員の大きな意識の乖離が生まれます.卒業生の多くが回顧して思うのは,自分が3と4の教育,学問から遠かったということです.これを後から達成できるかというと,おそらく難しいと思われます.一旦仕事に就いて,その中で再度勉強するときそれは1と3以外は無く,学問としてはあまりに目的達成型になるからです.教育の論法として目的を達成するために学習する方が早いという意見があります.それはゴールと手法が明確だからです.大学において教育,学問は常に成長しており,そのゴールはその時点のなんらかの最適点に過ぎません.だからこそ,我田引水や,課題の浅さを知らずに講義することは非常に危険なことであることを知らねばならないと思います.
 なぜ京都大学がこれまで教養教育を重視してきたかを問わねばなりません.経済界や学会の圧力は個々の人は別として,集団となると「即戦力」を求め,ゆっくりとした人の成長を今や許さない状況にあります.成果主義の言葉の下に見かけ上の成果(売り上げや論文数)といったことを求めていることの背景は,人を育てる余裕が無いと言うことです.過去には,基礎だけを学習し,その後に目的を持たせて企業や社会で学習させるだけの余裕があったと言えます.ところが今はどうかと言うと,その基礎さえも学習する余裕が無く,単なる人の数でしか見られない卒業生が,使い捨ての扱いを受けることになっています.だからこそ,就職といった低い次元の判断が要求するものは当たり前にスマートにこなして,本質的な大学で最後の教養を高めることが必要なのではないでしょうか? 特定の考え方にしばられない,多くの価値観から教養教育こそが必要なものです.そのためには,大学ではたとえば自分の研究分野の人を増やすとか,自分の名声を上げるとかではなく,人を育てるということのためだけのものとして講義があるべきであると言えます.

2.知っておいてほしいことなど 

職を求め,名声と言った修飾を求める教育が低いものだと言うことはだれもがわかります.真理をもとめることについても,真理が人の社会のための真理かというと必ずしもそうではありません.多くは,自分の名声や虚栄のための真理探究が多い訳です.その結果へ導く教育は,職を維持する,地位を維持する教育になり,同様に低いものとなります.人の人格を高めるまでには至らないわけです.もちろん教える側にとっても最終的にどのような教育が正しいかはわからないことを考えると,真理を追い求める姿,真理を追い求めるための仕組みを作る姿を見せ,真理を追い求める人を育てるための事業(この表現は意味は違いますが,内村鑑三の「後世への最大遺物」の講演の表現)にあるように思います.これが大学としてやらねばならない道楽なのではないかと思います.人を育てることは国が挙げて行わなければならない事業であるにも関わらず,バブル期を経た我国の中堅層には,自らを否定することにつながることから,そのような真面目な生き方を敢えて無視し,さらに表面的な自らが上に立つことだけを正しいとする考え方で律しようとしています.いずれは自分に跳ね返ることをあえて見ぬ振りをして.
 バブル期前の人は無知を恥じていました.それはその結果どのような社会が生まれたかを自らの体験として知っていたからだと思います.しかし,1990年代を終える頃から,無知,未熟,蒙昧を恥じない雰囲気があまりに強くなりました.その動きとゆとり教育の重なりは,経済力を失った日本の現状に取っては唯一の資産であった教育を消耗する結果と成りました.教育は先に述べた目標があるわけですが,その前提は無知や未熟さを恥じて,決して道を失わない様に社会が向かって行く方向があったからです.子供同士のいじめの問題も,その目標が入試を前提とした成績と結果にあるからであることは,否定のしようもありません.それぞれの能力に応じて個人が確立することが可能ならば,お互いに無知,未熟を恥じて,切磋琢磨する様々な方向性があることも認められます.勝ち組,負け組と単純な分け方をするような教育において,恐怖から逃れる方向にしか示されていないことが今の姿であれば,一人を追い落とせば自分が残るという単純な論理だけが残ります.その集団自体が海に向かって突進するネズミと同じであるにも関わらずです.
 大学を4年で終えることは通常ですが,その中でまだ自分が求めなければならないことがあればさらに勉強することはあって良いことです.それが必ずしもその専門の中である必要はありません.自分に足りない部分を知ることができる場が教育であるということを今一度考えてほしいと思います.もちろん特定分野で抜きん出ることは素晴らしいことです.それは最初からそうではないことはその人だけが知っています.他の部分が弱いからそこで抜きん出る様にその人が努力しているだけだからです.あえて自分の弱い所を示す人はいませんから,端から見ると全ての面で優れている様に思えますが,それはほとんどの場合間違っています.これを正しいとして人の教育に用いると,その結果,一時的に強烈な個性や成果を示せても重厚な研究成果,長い期間の方向を示すことができなくなります.ピークを支えるのはその裾野の幅広さ,広域のスペクトルを持つエネルギーとなります.突然全く異なるスペクトルは立ち上がらないということは誰にでも分かります.ノイズレベルでもその知識があれば,共振することも可能になります.

3.心がけてほしいこと 

目指すべきことは自分の知らないこと(無知さ,未熟さ,蒙昧さ)を知ることであり,それを補うことができるように自分のコースを決めるべきであるということです.今完成された技術は30年以上前の基礎研究の成果です.みなさんが30年後にそこに居る保証は全くありません.親の世代はもう十分にその失敗を経験しているのではないでしょうか? 知らないことを武器とすることは恥じるべきことだと思います.ネットワーク・クラウドは外部メモリーにはなりますが,頭の中でそれらの情報を有機的に連携させ,新たな知見を生み出すための土壌にするほど皆さんの頭脳と一体化はしていません.だからこそ,時間を掛けて知らねばならないのです.
 情報検索してレポートを書いても,それはそれで終わりです.誰が確定した知識かも検証せずに鵜呑みすることは学習でも研究でもありません.必要なことはそれを検証する方法を知ることです.方法は,理論,計算,実験でしかありません.世の中全体がその様な状況であると冷静に考えられる人はどれだけいるでしょうか?大学の教員でさえ,世界の研究情報で右往左往しています.二三年毎に入れ替わる研究の流行は言って見ればそこで覇権を取るためのPJにすぎず,お金を集める政策であったり,出版社の生き残りのための策謀であったりします.そんなことに関係ない本質的な研究テーマを時間を掛けて挑むためには,逆に情報を遮断する事は不可欠となっています.人の情報ほど当てにならない物は無く,人の論文程あてにならないものはない・・・それが正直な感想です.私が学生のときは,指導教授からできるだけ人の論文は読むなと指導されました.結論がなったときに始めてその位置づけをするためにサーチする程度で良いと.

4.あらためて学問へのアプローチ 

先日,福沢諭吉の「学問のすすめ」を改めて読む機会がありました.電子書籍が当たり前になった世の中に,青空文庫による多くの人の努力の御蔭で,著作権の切れた古典をフリーに読むことが可能になっています.昨今では町の書店が次々と潰れ,書店で立ち読みをしながら書物を物色することは減っています.一方で,電子書籍がネットワークで購入でき,電子ブックで新刊や売れそうな本が出されています.それらの中で,著作権の切れた古典書がフリーに提供されるようになっていることは注目に値します.セレンディピティーという用語があります.思いがけない失敗が発見に繋がることや,見落とした事から覚醒することなどを指しますが,教育・研究の本質はそういう気づきの能力を養う事ではないでしょうか? 
 書籍は,出版された当初は非常に生々しく,著者の息や欲,優越感といったものが見え隠れします.今研究に必要な技術ではなく,ものの考え方や理解は,それらが時間とともに淘汰されたものからは素直に理解することができます.古典を見出して読む時,間違いが明らかな記述や,古い方法論が示されるときがあります.それらを馬鹿にせずその理解の原点を考えることは重要なことだと思います.自然科学だけではなく社会科学,哲学論においても同様に思います.
 先の「学問のすすめ」を改めて読み,改めて気づいた内容がいくつかあります.例を挙げれば「自由とわがままの界は,他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」とあります.あらゆる分野に共通の事項ですが,このようなことが書かれていたことに気がつきませんでした.教育で言えば,教育する側,受ける側の自由は自らの中に閉じている間は許されるが,ひとたびそれが人に対するとき妨げとなる可能性があり,それを知らずに自由を主張することが如何に問題かを示していると,今の立場では理解しています.「一科一学も実事を押え,その事につきその物に従い,近く物事の道理を求めて今日の用を達するべきなり.」ともあります.これは人間普通の実学として全ての人がやらねばならないことだと示しています.今の教育が全ての人にこれをきちんと進めることを教えて来たかどうかを改めて考え直しています.
 大学において,研究者は独立することを夢見ます.それは独立して何を求めるかに掛かります.若い研究者は独立して自分の好きな研究をしたい・・・となります.それは独立していない状況が生む夢ですが.はたしてそこに教育という側面があるかどうかを今一度考え直してほしいと思います.自分がやりたい研究は確かに高いレベルにあるかもしれませんが,それをそのまま教育に資することはできません.あまりにも個人のどろどろとした欲が含まれるからです.自らを研究も含めて客観視し,また普遍化したものでなければ教育には資すことができないことを先の言葉は含んでいると理解できます.
 電子書籍,ジャーナルのみで研究を進めることは可能です.ただし,特定の目的を持った場合に限ると思います.大学,大学院の期間は人生で唯一目的の無い読書ができる期間です.また映像や旅,人との交わりの中で自分を位置づけることができる時間です.この時間を大切にしてもらいたいと思います.その中で,改めて古典的な著作をゆっくり読むこと,原典をきちんと読むこと,そして何ができていないかを知ること,それが最も必要なことだと思います.
 年をとって来て始めて気がつく事は時間の大切さです.それは時間を仕事で埋める,研究で埋める事ではなく,考えるための時間です.何を考えたら良いかわからないというのではなく,考えて論理の感性を磨く事ではないかと思います.そのために必要な事は,多くの古典を読み,現象を自ら体験し,無目的に考える時間が必要なのだと思います.それが学問へのアプローチとなります.

5.価値を作り出すために 

時代が動く中で,古い物として置き去りにされたものを見出すことから新しい世界が広がります.なぜ置き去りにされたか,どうして今適用できないか.良い思考の訓練となることは誰しも分かっています.常識にこり固まった世界にいるとパターン化された生き方が可能になり,普遍性の無い現象に対して,経験則,公式という魔物が現れます.あるいは,権威という人があたかも摂理の様にその場の状況を説明します.これらの問題を見出せる力は,教育を受けた者が人の言葉にきちんと耳を傾け,自分の理解で斟酌する中で育まれます.
 日本の電気電子産業の凋落は何にあるかを考える必要があります.誰が見ても個性が無く,挑戦的な魅力も無く,価格が高く(あるいは同じ値段),そしてその国の文化に資する意識の無いものは淘汰されるのは当然です.あまりにも日本の国内市場の有力企業の価値観,すなわちその会社が収益を得る構造の維持を普遍性があるものと勘違いする,会社内の人の思考が画一化した結果です.だれもしないから横並びで同じ事を始めた結果,企業数と言う多様性はあっても技術の目的の単一化を達成した瞬間に,日本の多くの企業には多様性が失われて,提示する世界が失われた事をもう一度考えるべきです.誰もが新しい物を求めていることと自分の満足が人の満足と勘違いしていることを忘れています.多くの会社での講演で,若い技術者が新しいことをしようとして,そんなことをして良いのかをまず考えると聞きました.また,まず先の事例を捜し,それらを使うということを言われました.このような会社がパラダイムシフトを社員に要求したところで,自己矛盾でしかありません.ものの本質を分からないかけ声は意味がありません.後を追いかけても先を行く者はすぐに90度方向を変えます.それをフォローする事の難しさは過去の日本の企業が追い越した時点でできなくなった硬直の結果です.その時点でバブルを迎えたことが全ての結論だと思います.前に出られないことで磨り減る姿は同じ事を繰り返す意外に能のない姿でしかありません.電気電子の将来は電気電子の分野内だけにあるわけではないことを,まず最初に分かっているのが我々でなければなりません.
 一方,日本の強さはアナログでした.感性であり,美意識としては完成度の高いものです.しかしその技術が汎用品において普遍化し世界中に広げるという意味では無理があるということに気がつかなかったと思います.ディジタル化は本当は日本が一番進めても良かった分野です.それを拒んで来た結果として,目的が高付加価値による価格の維持(当時多くの新聞や識者が唱えていたと思います),目的の画一化による単調さが生まれました.学会でもしかりで,職人の様な技術者がアナログの効率を98.5%から98.6%にしたと喜んで話し,それが何を生み出すかと言う世界観を失っていることを何度も経験しました.新しい試みをした若い研究者に,そんなものは意味が無いと言い切って自らの立場を守る人を何度も見ました.国内の研究者が育てた結果を否定して,同じ結果を海外から輸入するという研究者育成という意味では自傷行為が横行しました.それらがどういう結果を引き起こしたかを言えば,前者の会社は大きな赤字を出し見る影も有りません.後者の分野は既にその役割を終え,新しい技術を提示できない学会の分野となっています.
 答えの無いテーマに,一つ一つボトムアップにデバイス,回路,システムを作り,そこに生まれて来た新しい現象の価値を見出すことこそが日本がやることだと思います.常識が無いと言われたら喜んで勉強し,一つでも可能性があれば人の意見を素直に聴いて新たなフェーズにアップすることが,研究者がすべきことです.価値は自ら見出して行かなければ人には見出してもらえません.昔の様に,良いものは黙っていても見出される事はありません.自らのコンセプトを価値として示し,我々が周辺への教養も含めて作り上げていることが必要な事だと思います.
 個人の意見を示すなら,人が提示したモデルによる解析は所詮リアリティの無い解析です.人の褌で相撲を取るという戒めと替わりはありません.今必要なのはそういう批評家を育てる事ではなく,自らデザインができる人を育てることです.そのために必要なことは,原典を学習し,そのからモデル化のプロセスを検証し,その上で新しいデザインをする能力を高めることだと思います.

6.一緒に目指せるもの 

自らが独創性を示すためのフィールドを捜すと同時に,自らの弱い所を埋め,裾野を広げてボトムアップに世界を変えて行く練習の場として研究室を選んで下さい.自分のペースで勉強すると同時に,目的の課題への勉強の仕方を練習することが研究室の運営方法です.それらの中で,未だに誰も答えに辿り着いていない物理,技術の開発をおこなう経験を積む場を提示しています.
 教員として同じ事を続けている訳ではありません.今の研究課題は,過去に指導者が考え準備して来たものであり,必ずしもこれからのものではありません.自らが新しいことを試みる中で,みなさんと一緒に新しい分野を創成して行きたいと思っています.
 興味のある人は是非とも一度話を聞きに来て下さい.

年初の挨拶2014年版

2014年版 

1.現状の理解 

「研究室を選ぶことは,自分が一生拠り所とするものの考え方を手に入れることである.」と書いたのは何年も前のことである.今一度原点にもどって話を開始することは,自らの研究室の運営の原点を見直すことにもなると考え,再びこの視点から始めてみたい.
 研究室で手に入れなければならないものは,計算法,実験法といった手法に加え,背景として研究の基盤となる自然への目の向け方,あるいはあたらしいシステムデザインのための必然性,論理性,美的感覚などであると考えている.これらに一様な答えは無く,指導を受ける者が自らの感性で,日頃接する教員,先輩の示す言葉や,態度,あるいは振舞いから習得することである.そんなものは,研究と関係ないと思う人はいるかもしれない.しかし,手法論が何のためのもであるかを描けず,研究そのものの目的を見出せない研究者が多数いる.その結果,彼らは,どこかに面白テーマはないか,面白い式は無いか,あるいは極論を言えば人から評価される研究テーマは無いかといった行動になり,物理や数理,工学への飽くなき探求とはほど遠いものとなる.博士課程の教育を受けた将来を期待された研究者から,「良い問題を下さい.そしたら解いて上げますよ.」という言葉を受けたことが何度もある.本末顛倒な物言いに,ガックリしたことは一度や二度ではない.学会の指導者クラスが集まる会合においてさえ,そのような発言をする人がいる.私が研究室で学生の皆さんに期待していることは,そういうことではない.博士の研究を経ていても,システム化された教育を受けている訳ではないという現状が見える.
 大学・大学院が,研究者を指向する人の教育を真剣に考え,システムを作って来たとは言い難い.なんとなく同質の関係者が共通の認識として進めて来た.均質な社会での暗黙知と言えるが,正直言えばその前提が崩れた時,手を抜いて来た結果として,教育として成立しなくなっている.日本で博士の学位をPhDと称することが許されているが,その教育課程に本当にPhDの価値を問い続けてきた,いるとは言えない.(ただ,決して海外のPhDがそれが出来ていると言っている訳ではない.)
 この問題点は以前から指摘されていた.つい最近まで,企業の技術者の多くが論文博士のシステムを用いて学位取得を行ってきた.この制度は第二次世界大戦前の日本の教育制度,いわゆる旧制帝国大学が新制大学に移行した時に,学位取得の機会を失った人のための救済の措置であったことは良く知られている.しかしながら,日本の文教政策は大学院の充実ではなく,戦後生まれの学生がほとんどとなった状況で,学位取得の抜け道を与え続けて来るばかりでなく,海外に対してその窓口を設定するなどの道まで示して来た.その結果,その大学の教育,指導,そして自らがどのように研究課題を設定し,またアプローチするかの議論や妥当性を検証すること無く,学位を与えるという結果だけを重視してきた.本来の学位の意味すら見出せていない多くの企業は,博士課程の教育も尊重せず,博士課程の修了者を評価せず,そして日本の技術者をその素朴な帰属意識を利用して遇するだけで,研究者としての成長のプロセスを作り上げることをしてこなかった.企業の共同作業の中から学位を貰う人を選び,申請させて来た.バブル期の前後まで大手企業には余裕があり,社内の優秀な研究者には海外の大学院へ入学させ,課程の指導を受けて学位の取得の機会を与える一方で,国内では論文博士だけを認めて来た.
 大学はと言うと,その受け入れおよび審査の課程で数々の不明朗なプロセスを残した論文博士を放棄することが未だにできていない.少なくとも心ある電気電子工学系(八大学)の教員は,この問題を理解して論文博士を受け入れないことが重要なブロセスと考えて動いて来た.ところが論文博士の路を閉ざしてしまったと同時に,企業が社会人博士への入学を人事ルールを合わせることもしなかったことで,企業の技術者に再教育の機会を失わせてしまった.今,多くの優秀な研究者・技術者を抱える電気系企業が,リストラを繰り返す中で,本当に多くの人材を無に帰してしまった.博士課程という教育のなかで受ける訓練の意味を大学が明確に示すと同時に,その対策をとること自体を放棄している.怖いことはこのような現状の把握も出来ていない者が,博士課程を考える学生に,何の責任も無く,企業に来てから学位を取れば良いと言って就職を促すのは,詐欺の域である.
 一方で大学の博士課程も,本当の意味で課程の基礎教育を標準化したものとして整えられていない.昨今,文科省の提言は博士の学位に基本的な教育とは何かと言う取り組みが始まっている様に一見思われるが,実質は何も無い.多様な経験をすることを主たる位置づけにしたリーディング等の試みなど,博士課程で行うものではない.グローバルな人材は博士課程で育てるものではなく,自ら社会に何が必要かはもっと早い段階で見出し,それを人類の多くの知見に基づいて理論付け,手法を編み出し,社会変革を起こすものでなければならない.幼稚園の園児の様に守られた中で過ごす人を送り出す,脇道を造ってるにすぎない.これをエリートコースだと思う人はどこにも居ない.本来,コースで教育を受ける前に課題を見出さなければならないのだ.一緒に考えましょう・・・とはまるで幼稚園か小学校である.
 さて,文部科学省は大学院の定員充足率を一つの評価とするとしてる.充足すれば良いと思っていることもあまりにもお寒い限りである.初等中等教育の策を誤り,大学が学部教育に忙殺される現状を作り出しておいて,大学院で教育する人を増やすという暴挙は,結局手抜き教育の連鎖を組織に生むだけである.こういったことを真剣に議論するべき大学の運営組織も,文科省も,教育そのものと未来への方向付けを避けている.つまり,日常への対応による疲弊の中で,思考を停止している.そもそも,現場から離れて過去の思い込みから改革を破壊と勘違いし,既得権益の破壊と収奪が正義と考えている限り,将来へ繋がる路はない.教育のシームレスな移項に最大限の労を取らず,潰せば零から良いものが立ち上がると思っている人が,勧善懲悪の役者という役で酔っているのが今の状況である.教育,政治,経済はその時定数があまりにも違う.そのことが未だに分からないのが情けない.大学評価の中期計画の6年間はその期間で成果を得るものではない.撒いた種を刈れたとすれば,その先立つ期間の努力の結実であり,刈り取る人の成果ではない.次に良い穂を刈り取れる様に最善を尽くすことが教育のあるべき姿であろう.下積みになること,人のために尽くす姿をみせ,他人へのサービスを厭わない態度を最優先して人を育てることが,エリートおよびその教育の本来の姿ではないか.強い者が勝つということだけを追い求める姿を示すことは,非常に脆弱な世界を生み出すことになる.博士は今なおアカデミズムのエリートであるべきである.その発する言葉に専門の立場で裏付けられる資格は,医師,法律家,宗教家に加えて,博士があることを知っておいてほしい.
 博士課程の教育だけが大学院の教育課程ではない.しかし,博士を育てる過程を経て初めて研究室が完成し,教員が成長する.その博士課程の指導において,指導者としてのジレンマ,研究者としての自負,そして葛藤があり,それを越えて初めて,研究と客観的に教育を位置づけることができるようになり,発展的な研究の指導が可能になる.一方で,指導者と苦労を共にすることは掛けが敢えのない指導でもある.その過渡状況で学ぶことも多い.それぞれ異なる状況にある研究室で,研究室を選択する学生が,何を得ることができるのかを冷静に見なければならない.

2.カリキュラムと学位 

創設以来科目を追加する作業だけしかしてこなかった京都大学工学部電気電子工学科が,そのカリキュラムに関して大きく改革に乗り出したのは2006年のことである.そして完成したのが2010年であり,その学生が大学院博士課程を終えるのが2015年である.これからわかるように,教育の過程はこのような長期間の作業と,教員の継続的な改革への集中を必要とするものである.途中で加わった教員は,本当はこの経過をきちんと学ばねばならないし,担当したものはきちんと伝えなければならない.しかし現実には,何も考えずに組織が設定した現状として,当事者意識の薄い対応をすることが多い.新しいシステムに加わることは,その理念を学び,手法を改善しながら寄与して行くことであると思う.自らに都合良く書き換える,あるいは手を抜くという形を取らない様,常に改革を続けて行くことが必要となる.静的な維持ではなく動的な展開を続けることが重要である.
 電気電子工学科の90%以上の学生が大学院に進学する現状で,6年間の期間で修士の学位を与え,加えること3年で博士の学位取得の教育を行う.この時間だけを見た教育を大きく変えたのは,工学研究科が進めた大学院前期・後期融合プログラムである.文科省や京都大学が言い出す何年も前に,大学院の5年間を連続して指導すことが可能なコースを設け,修士の区切りを自由にし,学部から大学院の科目の履修も可能にし,また博士の短縮も以前より容易にした.留学も単位として認め,主指導教員に,論文の審査だけでなく定常的な研究の指導を副指導の教員が実施する教育の実質化をどこよりも早く始めた.それが京都大学大学院工学研究科の大学院前期・後期連携プログラムである.コースは専攻に閉じず,複数の専攻にもまたがっている.従って,そのカリキュラムは個別のポートフォリオによるという方式をとる.このコースで教育を受けた学生が社会に出たのが昨年のことである.修了者は企業からも高い評価を受けている.
 残念ながら,宣伝が上手でない工学研究科は,これをいつのまにか大学のリーディング大学院の専売特許の様に使われてしまっているが,その実像が見えないコースとは異なり,実質的な運営は工学研究科の一部のコースではすでに確立し,博士を送り出して来ている.地に足の着いたコース設定でも十分に文科省が言う改革はできる.
 このように,長い時間を掛けて人をどのように育てるかを考えることがコース/カリキュラムの議論であり,自分の講義を入れろとか,あの講義を無くせとかいった個別の議論ではなく,学部から博士課程修了までにどのような教育を提示するかを示すことがその作業である.当然途中で卒業,修了する学生,途中から進学する学生に対してどのように考えるかも明確に答えが用意されていなければならない.また,イレギュラーな学習も,多様性として許容するおおらかさも必要である.それは人と課題に拠る.
 ここで今一度,論文博士とはどういう位置づけであるのかを,本当に企業,取得者が理解しているのかを問わねばならない.当然,世界でその技術を戦わせ,標準化を狙う企業においては,その前線で学位を有する技術者が,その資格に裏付けられた個人の識見と企業の信頼の下で技術の妥当性と覇権を賭けて折衝を重ねる.その場において,博士の学位の無いものはサポーターの役目以上のポジションにはなれない.単に免許証の様な認識であった論文博士は,個別企業の技術の擁護者でおわるのではなく,より広い識見の中で海外の博士と妥協点を見出し,より大きな世界を作り出す作業者になることが求められることを理解しなければならない.そのために足りないものがある.

3.多様性と特異性 

研究課題には,研究の進展の中で,萌芽期,発展期,完成期がある.京都大学はその研究のスタイルとして,等身大の研究課題の萌芽を大切にしてきた大学である.決して,海外から輸入しそれをいち早く国内で拡げてローカルな覇権を握ったり,潤沢な研究費で多くの人を雇用・使用し分野の覇権を握ったりする首都圏にある大学とは異なったスタイルできた.個々人の独特な研究思想を尊重し,その能力を認めながら研究教育環境を維持し発展させて来た.当然ながら,その能力により役割分担をし,お互いに尊重して来た.研究の流行,廃りは当然である.だからこそ獲得した潤沢な研究費は,機関は組織全体に資する,あるいは次の研究の萌芽にも適用することがなされていかねばならない.今,大学を巡る環境では,研究費を取って来ることがあたかも正しい姿と考えられている.それは特異な研究課題が固有のスペクトルで輝いて目立った結果,提供を受ける.この課題も3-5年程度の研究期間で,萌芽から完成に至ったものではない.他の研究課題の周辺として,ブロードなスペクトルの裾野の中に隠れていた課題が,何らかの技術の展開で異彩を放ちだした時,それを磨き,より輝かせることで立ち上がって来たものである.これから明らかな様に,次に育てるべき研究の課題,価値,手法の多様性が,今展開している研究課題の中で維持されなければならないのである.
 最近企業で講演をすることがある.どの企業でも,「パラダイムシフト」を会社から求められると若い技術者が異口同音に述べられる.単純に儲からなくなった事業を他に売り渡し,そして人も外に出してしまう.また異論を唱える人を,協調性が無いとグループの外に出す.そこまでは,企業の資産集中としてあり得る.しかし,これはパラダイムシフトを自社内で進めることとは対極の動きである.資本集中で技術,人のQ値を高めエネルギーを集中する.その結果,エントロピーを失っていることを理解しているのだろうか? エネルギーの集中は,その最適化の作業の中で,不要とされる様々な他への展開の芽には構わず,均質化と専業化を生み出すことになる.そのような中で,不連続な媒体でエネルギーの連続的なシフトが生じないことを忘れているのではないだろうか.この体制は時間とともに衰退することは必定である.
 特異な人はどこにでも居る,しかしそれを排除したり矯正することで,意見の均質化を図るという動きは,どこにでもある.多様な意見,可能性に道を閉ざし,上意下達な組織を作った結果,その組織は一定期間で閉じるべきものになる.その選択をしたにすぎない.人の世の繰り返しをまた学習もせずに続けている.なんと人は馬鹿なのかと思うばかりである.
 大学の研究室は,中小企業だと言う人がいる.それは,何にでも対応できる技術を持っているという意味ではない.ワンマンな社長が少数の社員と身勝手な運営をして,決して大きな組織ではできないような,自転車操業の経営をしているという姿の揶揄である.しかし,それは教育と言う側面を一切無視している.とある商品の老舗が,技術を受け継いだ者に外で開業することを許すことで,その技術,美的感覚を受けついた商品の世界を拡げ,文化のレベルまで拡げて行く世界がある.一定の技術レベルを持った者でなければ,老舗の関係者であること名乗ることは許されない.これがより大学の研究教育に近い.その中で,少しずつ新しい技術を導入し,冒険をするのは分家した弟子である.本家は頑にまた発展的に同じ技術高め,伝承し,最後には道を他に譲って行く.この不連続なシフトが技術,研究の展開といえる.伝承することは,単なる知識ではない.
 必要なことは多様性であり,多様性を認めることは特異性を認めることである.そして全ての流行は,一定の時間の後に淘汰されるものであることを自ら理解した上で,生き様を示す必要がある.

4.国際性のかけ声から見えるもの 

日本人に国際性が無いから海外に学生を送り出すという話,会社をグルーバルにするために英語を共通語にする話,などなど日本人と国際性に関する議論がある.留学生の10万人計画はいつのまにか達成されたが,我が国は何を世界に伝え,何を教授し,そして何を受け取ろうとしているのか.産業界の発想では,留学生は各国に戻って,日本のものを導入し,そしてシンパな人を作ることを要請している.身勝手な話である.一方で,海外からの留学生への採用フェアーなどで,一切の表示を日本語で行い,英語のパンフレットすら用意されていないことがある.企業名すら漢字である.彼らが一体何を考えているのかを問うたことがある.それは,その程度の日本語がわかることが選考対象とする試験であるという答えがあった.ここにある矛盾を,企業の担当者自体が理解していない.日本人が選考すること自体も矛盾である.多様な文化,知識,言語を認め,その様なバリアーを越えた上で新しい企業文化を創成するという意識が無ければ国内で企業活動を続ければ良い.自らの先入観を押し付けることのどこにも国際性はない.
 大学も国際化といいながら,窓口に英語が普通に使える人を配せない.HPも書類もいつまでたっても日本語のみで英語化しない.その環境において,留学生だけを集めて教育して,一体彼らに留学の意味があるのだろうか? 単に留学生の受け入れ数が上がることが国際化なのではなく,それにより国内の学生が自らの位置づけを問うことにあるのは明らかである.あたりまえに留学生が居り,あたりまえに日本語,英語,他の言語をまぜて理解を深める.その際に我々の共通の言語は数学であり,物理であり,結果の図であり,電気電子工学の論理である.これが工学系の姿ではないか? 物理の一分野である電気電子工学という学問に日本語という世界は無い.自らを返ることをせずして,相手にだけ変えろという姿勢に未来は無い.
 ガラパゴスは精神性の問題であって製品は優秀だという最近の巻き戻しの議論は,何か企業活動を芸術活動を勘違いしているのではないか? 日本語で話す内容も持たず,歴史を学習せず,試験科目は入試に楽だからといって多数が地理だけを勉強し,日本史も世界史も全く知らない学生,古典も読めず,自らの政治体制の問題点を考えることもなく,どうやって国際化するというのか? 自らを理由も無く高いと妄想して是とする発想自体がすでに問題である.このような傾向は,そもそもの初等中等教育の問題が生み出した結果である. 20年間の教育システムの問題が今出ているということに過ぎない.そこが既にガラパゴスである.「必然性」という観点が,多くの議論から欠落している.
 入試をAO化し,試験を廃止したとき,入学生がすり切れず教養が高まるという考えは大きな勘違いである.本来学習は知識を詰め込む期間と緩める期間,そして融合する期間,最後に導きだす期間からなる.足りないものを後から補える教育システムを作っていない我が国の高等教育は,初学で緩めた途端に知識の欠如を広く引き起こしてしまう.相対的な知識量を問う偏差値ではその問題は一切見えない.国際化を会話と考えるならそれもよい.しかし会話する内容が,上滑りで物事の本質をあらゆる可能性から議論する意識のない知識では,その次の会話が伴わないのである.初習外国語を止めている大学が多いが,第二外国語を学習することも,英語の良さ,あるいは他の言語,文化・思想への尊重を生み,多様性への理解にもつながる.そういった可能性を,利便性,単純化,即戦力,専門性といったイメージで顧みず,大切な道を切り捨てて来たことは紛れも無い.
 本当に教えるものが何かを理解し,全てのカリキュラムを見直して行く作業は,人の一生の期間を考えると,本当に壮大な実験である.国際化も同様であろう.そして,現状は20年来の初等,中等教育の結果である.もちろん,昔が良かったと言っている訳ではない.多様性を認めながら,人を育てるということはどういうことかをシステム的に見直しもせず,思いつき,思い込みで大衆迎合な施策,パフォーマンスを大学が繰り返した結果,ボディーブローを受け.教育は多くの問題に直面している.すなわち,そこここで非常に薄い研究・教育活動を生み出し,活動を維持するだけのために大きな資金が投入されている.

5.あとがき 

「反面教師」という考え方は中国の文化大革命において生まれた考えであると内田樹先生の著書 で知った.しかし同時に,反面教師というものは存在しないということも知った.これは,反面は所詮,師としては何も習う側の理解を誘発しないからである.糾弾されたり,対峙される存在としての反面教師は,一つの寄り付くべきではないボーダーを与えるが,他から与えられた規範での可否以上のものを示さないからである.
 人の数だけ理解がある.そして,人の数だけ可能性がある.自ら足りない所を理解し,真摯にその足りない知識,能力を補い,埋めて行くことが,その上に櫓を組むための必須である.その作業を,今研究室に配属されてくる学生が理解していないケースが多いことをここで述べておきたい.自分が何を知らないかを知るために研究室に配属され,研究課題を選び,研究を進める.そのことが最も重要なことである.その繰り返しができる環境が必要である.
 自分は知っていると言った時点で,相手はもう説明はしない.そしてその能力を問う.他の理解からはどのように理解するのかを,仮に自分が知っている知識についても聞く耳を持つことが大切である.その結果,裾野を埋め,幅を広げ,展開を可能にする.それはお互いのためである.
 研究は一人ではできない.人類の科学史を一人で再構築できるならすればよいが,おそらくそんな時間の余裕は無い.早い段階で科学技術のボーダーまで辿り着くための道筋を得ることは避けられない.そのボーダーまで行く作業を経ずに博士の学位は無い.そのことも理解し,小手先でそのような資格を得ても人にその道筋を示すことができないことを同時に理解することが,企業での活動でも重要なことである.
 さて,私がPIとして運営している研究室は,創設から10年を越えた.その間に10人を越える博士学生を輩出してきた.決して同じ分野にならないようにテーマを設定し,自らの手足を切り分けながら学位に方向付けしてきた.その手足も烏賊の本数を超え,もう何もないかもしれない.再生した手足から,完全な課題を提供できるかどうかもわからない.しかし,その考え方や美意識,そして生き様を提示する様日々学習を続けて行きたい.
参考文献
内田樹:先生はえらい,ちくまプライマリー新書(2005)
引原隆士:インフラとしての教育システム,工学技術研究誌 日立電線,巻頭言 (2012.1.1)

年初の挨拶2015年版

2015年1月1日版

過去10年近く新年にメッセージを書き続けてきた.最初の2年分のメッセージはもう読めなくなっているが,毎年研究室の新たな参加者,特に新たな参加を希望するものの悩んでいる人に,知ってもらいたいこととして記載してきた.その中で世の中の状況への警鐘をならしたこともある.それが数年後に露わになったケースもあり,些か書く内容に躊躇することもある.しかしながら,この研究室を運営する主催者がどのような考えを持って,研究室の構成員,学生,あるいは社会に対して主張しているかを知ってもうらうことは,最も重要だと認識している.読まれる方もそのように認識して読んでいただきたい.

1.研究テーマはどうやって決まるのか? 

世の中には研究テーマの流行り廃りがある.また流行を追いかけることが正しいという世の中の風潮もある.流行りのテーマとは,時代的に重要なテーマ,論文誌や学会で多くの発表がなされているテーマ,研究費が潤沢に供給されている分野,新聞・テレビ・ネットというマスコミがしきりに持ち上げる分野,というものであろう.正直言って,私自身が流行りのテーマを選んだ経験はなく,どちらかというと人が敬遠して来たもので,流行りとはとても言えないテーマばかりに手を染めてきたと言える.であるから,流行のテーマに今から参加するぞと言って挑んだことが一度もないため,そのように集まる気持ちが本当の意味では分かっていない.
 どの研究者も,自らが経験してきた研究の指導,指導者,あるいは環境の影響を強く受けている.分野に関係なく大学の研究室の指導者にまでなった者は特にその傾向が強い.つまり意識して自らを変えなければ,その体験の範囲でしか指導ができない傾向が強い.そのことを多くの学生の方に理解させることは,私の研究導入教育の第一歩である,従って,私が受けた指導の一旦を知らしめることは一つのパターンを示すことでもある.
 私自身が自分の研究テーマの決め方あるいは進め方を見直し,本当の意味で分析的に指導を受けたのは米国に滞在した時である.在外研究に行く前に京大を修了後別の大学の教員であった私は,研究費や共同研究者に恵まれていたとはとても言えない.しかし考える時間はあり,それまでの自分の学習,環境,研究経験から自分にとって最適な受け入れ先を選ぶ際,本当に今後どういう分野の基礎的な勉強が自分に取り組めるものだろうかと言う点に限られていたと思う.決して,テーマを先に決めたわけではない.自分には似つかわしくないが,当時関与していた学会でのパワーバランスで政治的に決めた第一希望の行き先からは断られ,ある意味好都合でもあった.(当時は電子メールはなく,エアメールの手紙で受け入れをお願いし,その行き来に早くて2週間掛かった時代であることを考慮してほしい.その間の心の葛藤は半端ではないが,逆に人の思考に合致した時間スケールだったと思う.)結果的にその選択が,研究テーマの見出し方,決め方について初めて身につける機会を与え,研究者としての行き方を授かるに至った.
 昨年,在外研究先であった米国 Cornell Univ.のスーパーバイザー,Prof. Francis C. Moon の75歳のお祝いのスペシャルセッションがミシガン州ランシングのMSUであり,そこにお呼び頂いた.私が彼の研究室に所属したのは1993-94年で,米国はまだ不況にあった.クリントンが大統領で,ヒラリーが保険プログラムの提案でCornellで演説したことも記憶にある.(先日,UCLAに行った時もそのタイミングに出くわしたのは因縁かもしれない.)日本もバブル景気が崩壊した直後であった.日本からの滞在者の多くは,バブル期に日本を出て,その気分の抜けない人が多数居た.さて,同時期に同研究室の所属した仲間,あるいはその実験装置や研究室のログでのみ名前を見た研究者,そしてその後訪問した時に所属していた研究者,だれもが恰もすでにお互いを知っているような感覚になっていたのは面白いことであった.それは,同じものの考え方を共有できる研究者であるからと言える.あのときこうだったとか,あるいは何年後はこんなだったという言葉は,思い出話ではなく確認作業あった.私がProf. Moon の研究室,すなわちCornell Univ., Sibley School of Engineering, Mechanical and Aerospace Engrg.(MAE) と Theoretical and Applied Mechanics (TAM) に客員として所属したことが,私のこの後の研究人生のすべてを決めたと言って過言ではない.
 まず,学んだことは誰も研究を手取り足とりして教えてはくれないということである.特に客員,ポスドクは一人前の研究者として来る.だからこそ,自らの手法でデータを出して初めて議論が始まる.武器は自分の経験,知恵,そしてその場にある測定器具,あるいは使える計算器のみである.実験系のポスドクは1週間経っても机に座って論文を読んでいるようでは1ヶ月後には首と言われる.まさにその通りで,他に居るポスドクやドクターとは装置の取り合いとなる.実験装置が使われていない状況で空いていたら,それは他の人に使用される.また,技官も雇用関係から,ボスが指示しなければ決して助けの手を出さない.こういうビジネスライクな世界で本当に結果を出すことの大変さは経験しなければ分からない.先輩風を吹かして,そこにあるものは何でも使えると勘違いしている日本の研究室の博士課程の学生では,結局手も足も出ない.またテーマなど,どこにも転がっていない.しかし悪いことばかりではない.自ら最初の目標を設定し,最初の1週間を実験装置の使い方の確認と初期データの取得,2週間目にデータの再現性の確認,その間にボスとの議論をこなして,これまでに研究室で得られたことのないデータを取得し始めると,途端に環境が一変する.まず,実験装置の占有をみんなが認め始め,使うときは使い方を習いに来る.そして,1ヶ月後にはボスがこの論文の結果は本当かを確認してくれと相談に来る.最後は,ボスの講義のTAとしてのサポートや,アウトリーチへのサポートの指示が来る.突然やってきた海とも山とも分からないアジアの研究者に,だれが最初から重要なテーマを与え,そのためにテーマが何ヶ月も,何年も塩漬けになることを望むだろうか? 明らかに,テーマは自らポテンシャルを示した時に初めて他の研究者との共振関係で生まれてくるものなのである.私の滞在の後には,電磁気学が専門であったこのボスと関連分野で論文を書き,さらにそれを非線形力学との絡みで実験を進めたものは誰も居なかった.彼のその年に書き下ろされた著書の中で,その時の最新のデータを使ってもらえたことは私の研究者としてのあり方を決めた.そのことを,先に述べたお祝いの会での私の講演の後,彼がわざわざマイクを取ってコメントをくれた程である.
 研究のテーマは,あらかじめ予定されているものではない.たとえ準備されていても,それを受け入れる学生,研究者が自ら資質を示さなければ,テーマとしては成立しない.自らのテーマを自らの考えで進めたいのであれば,研究室の主催者として手助けするが,その時に研究室の環境や研究者から学ぶものがなければ,一緒にいる必要なない.その意味では新たな道を早く選ぶことを進めたい.人は,他から学ぶことをやめた時成長を止めてしまうからである.このように,テーマはそのアイデアを持つ者と,知識を持つ者,そして相互がプラスに触発する環境が相互に関係して初めてテーマとして世の中ない現れると考えている.収奪の構造などそこに有るはずもない. (本人がポテンシャルを示さなければ,テーマは単なる念仏にすぎない.それを持って就職の面接に行ったところで何の役にも立たず,逆に選んだ研究が間違いだったとまで言い出すことは少なくない.)

2.学生の方に知っておいて欲しい基本的なことのいくつか 

やってはいけないこと:学生は研究室に所属することで多くのテーマに触れる.しかし,それらを誰もが研究対象とできるわけではなく,またして良いわけではない.オープンサイエンスが仲間内で実現されているため,学習する機会は全員にある.しかし,能力のあるものしか研究とすることはできないという当たり前のことを知らねばならない.自分がやったこともない結果を自分のものと公言し,本当の発見者を駆逐したり,論文の成果を奪ったりする剽窃と呼ばれる行為は,何も最近だけのことではない.この不正は,研究を志す者が絶対に踏んではいけない轍であり,それを踏んだ時点で研究者生命は終わり,同じ場と時間に研究者として存在できないことを最初に知っておいてほしい.
 研究の必然性:研究を育てるには,研究者によるコミュニティが存在し,研究が高いレベルになるまで育つことを周りが見守る環境が不可欠である.荒削りのアイデア/データが論文になるまでは暗黙の約束がある.それは,だれもがそのサイエンスの萌芽には手を出してはいけないということである.その萌芽をサポートできるのは,本当に萌芽を自ら関与した人だけである.人が提示した課題ばかりを追いかけている人は,すぐにそのテーマに口や手を出す.それが許されないのが研究室であり,コミュニティである.そのコミュニティは同じ価値観を共有することができる研究者の集団であるからこそ,人の成長も同時に共有する.そこに一人でも価値観を異とし,そのプライオリティを無視して先に結論を出そうというと人が混ざりこむと混乱を生じる.その人が,思考過程から同じ結果に至る必然性がないにもかかわらず突然現れるのである.すなわち,研究には必ずその必然性がある.必然性の無いひらめきなどは無い! 
 世の中に住む常識という悪魔:口では多くの研究者が常識破れを求める.(常識破れの行動を取るということではない.)しかし,学会で多くの権威と言われている人が,常識的に…という自らが宇宙の法則の権化であるかのような攻撃がある.研究者として確立した者であれば,「あ,またか」と聞き流せるが,初学者には非常に対応が難しいものである.「効率」「有用性」も工学を主張する場合同様の攻撃となる.口癖のように宣う方々もおられる.工学は非常識のアイデアの蓄積であることを忘れてはいけない.つなり,自然に従うことが常識ならば,人工の技術は非常識となる.現代では,人工の環境も自然に含まれている.従って,当然常識の限界はさらに遠くまで進んでいる.そういう常識の言葉を攻撃の手法に用いた議論の流儀を研究室に持ち込まないで欲しい.質問の仕方を学ぶ事は,研究を共同で進めるためには不可欠である.
 モデルありきの研究の否定:これはモデルの必然性を問うことである.先輩の研究,あるいは他の研究者の研究成果から導かれたモデル,それを検証もなく使うことはすべきではない.工学の世界でもモデルを表すのは式,あるいはアルゴリズムとなる.まず,それらが必要となる研究を導いた研究に敬意を示すべきである.その上でそのモデルを使うことの必然性を示すことが,最初に導いた研究者の業績への尊重となる.それもなしに,文献で示された式が何の脈絡もなく成立すると仮定する所から始める研究など止めたほうが良い.
 ディスカッション機会の確保:学生の生態として夜型になることが多い.しかし,研究指導者とディスカッションをしたければ,自分の時間軸を人に押し付けることはやめるべきである.大学は通常の時間軸で動いており,研究室も,研究も同様である.研究室に宿泊して研究することは一見真面目な姿に見えるが,夜に研究室にとどまる事は,人間的トラブルや帰宅途中のトラブル,実験のトラブルを招きやすいことは明らかである.研究室は寮ではない.生じ得る危険を少しでも避けるためには,研究室に所属した時点で生活を改めるべきである.その上でディスカッションの時間を指導者に求めてもらいたい.また,研究会での発表担当の直前だけつじつま合わせのような議論を求めることは邪道である.それでは何の意味もない.研究を進めたいのか,研究発表の指導を受けたいのか,よく考えて欲しい.ディスカッションでは自らの思考とデータを示し,それに対する自分の見解をぶつけて議論をする,あるいはモデルの物理的意味を議論する,あるいは定理/証明の妥当性を議論するなどいろいろある. そのために結果をいきなりぶつけるというのは議論の道筋としては正しくない.考えてみてほしい.研究室には20近くのテーマが同時に進行し,指導者も自らのテーマを走らし,講義,業務,社会貢献などの作業に時間を取られている.議論を深めなければ時間の無駄になる.それをお互いに理解して進めなければならないのではないだろうか?
 上手くいかなかったデータの重要性:これも言い古されたことである.研究では表に出ないデータが最も重要である.しかし分かっていない人は非常に多い.昨今実験ノートを取ることがマスコミなどで面白可笑しく書かれるが,今に始まった事ではない.しかし,頭の中にしかないデータ,思考,書き出せない理論も意味がない.科学は記述されたものだけで再現され,検証されねばならないからだ.真贋を自らがあらゆる角度で検証したかを自分で示せることは,実験科学だけでなく理論においても不可欠な作業である.その記録がないことなどありえない.理論にもその限界がある.自ら暗黙においている仮定を自分で書き出し,その仮定を一つ一つ確認していく作業は,理論を扱うものが一般化を述べるなら日常的な作業と考えるべきである.

3.生の人の連鎖をつなぐことは研究者の仕事 

FB で人がつながり,友達の友達がすでに自分の別の友達の友達となっていることは多い.それは世界が狭いからにすぎない.その範囲でしか自分が活動していないからである.研究者の間にも ResearchGate とか LinkedIn といったソーシャルネットワークがある.その上で論文をやりとりすることは容易になっている.その多くはオープン化による持つものから持たない者への一方的な論文の供給であって,本当の意味で研究の相互のやりとりには使われているとは言い難い.
 在外研究の時,私がいた部屋は Prof. Philip Holmesの部屋の真ん前であった.知る人は少ないかもしれないが,Cornell Univ. に行った理由の一つに,彼が在籍していたことがある.いつも在室中はオープンにドアを開けている彼は,目があうと挨拶していた.しかし,本当に研究の議論をする機会はずいぶん後になる.私の実験データの現象の説明がこれまで用いられていたモデルでは無理ということが明らかになったことが切欠となった.Prof. Moon との立ち話の後に,Phil に意見を聞こうと彼が言い,フットワーク良くお向かいに呼びに行くことになった.幸いにも彼は在室しており,直ぐやってきて,いきなり話を聞いて,一言,そのモデルでは無理だね と.それからは,彼のサジェッションを受けて カリフォルニア地震のモデルでも使われたモデル記述を導入し,物理常数を確認しながら適用した.この過程の詳細は述べないが,非常に楽しい時間であった.その Prof. Holmes はその後Princetonに異動した.後年 Princeton へも訪問し,何度もいろいろな場面で協力を仰いで来た.研究室に所属する若い研究者が在外研究先を選ぶ切欠も元を正せばここに遡る. (その後,Phil はその著作で私が学生の時に計算した結果に基づいて著書の図を描いたことを知ることになる.それは,博士課程の指導者の指示によって行ったものである.その根本のプログラムは当時の先輩が基本部分を作成されていた.)
 Cornell の TAM は昨年廃止となった.そこに集まった,あるいはいた人は拠り所を失ったが,その関係は今でも繋がっている.昨年12月にインドで開催された学会に招待された.その招待は同じく Cornellに在籍した Prof. Rudra Pratap による.またそこでは,同じく Cornell から呼ばれた Prof. Parpiaとの出会いもあり,そこから新しい研究へのつながりも始まっている.彼はまた我々の別の研究テーマの共同研究者との友人でもある.このような生きた人間関係がなければネットで繋がっても共同研究は進まない.なぜならば,そこには一目でわかる人の性格や個性の合う合わないの判断が感性というフィルターを通して検証されるからである.また,この学会では Rudra の学生がたくさん質問に現れ,研究の方向性や日本への留学などへの質問を受けた.これは次の交流への始まりでもある.在外を終えて帰国する私に,Prof. Moon は「次は君がCornellで学んだことに基づいて,アジアの国の若い人に研究への道をつけなければならない.」と言われた.それは私の義務でもある.
 身近な国内の学会の場,在外研究を中心とした人的交流,国際会議のセッション設定の交流,留学生の受け入れ,それらを通じて人のグローバルな交流を作り上げることが研究室を主催するものとして不可欠な資質である.そしてそれは,自らが研究の中継者であることを理解して,個人に留めず,次へ継承していかねばならない.人から人へ,時間と空間を超えて,考え方,共同作業,そしてテーマを情報としてではなく営みとして繋いでいくことが,科学技術の研究のあるべき姿である.

4.新たなアプローチへのチャレンジを 

研究が出来上がったと思う時,それを崩す勇気がない研究者は,研究者をやめたと言える.自らの成果は常に次の世代の踏み台になるものである.どんな成果も次の成果への通過点にすぎないからこそ,新たな取り組みが必要になる.場合によっては自分の結果を否定することも大切なアプローチである.そのためには,複数路線で研究を進めることをより教育過程で指導すべきである.博士課程に進学する学生には常にそのように求めてきたが,残念ながら現在の目の前のアプローチを進めることが精一杯という姿を見続けて来た.自ら複数の研究のアプローチを構築できないため,他の未完成なテーマに軽い気持ちで手を出し,手を出しただけで食い散らして去っていく.残るのはストーリーも深みもない結果だけである.自分の能力のなさが研究の場を乱すという事実を冷静に見つめなければならない.
 パラダイムシフトを求める産業界があるが,パラダイムのシフトの意味が全くわかっていないのではないかと思うことがある.同じ分野で足掻けば何か降ってわいたようにパラダイムシフトが生まれるような議論があるが,そんなことは無い.果たして現在の多くの企業軍は,パラダイムシフトを自社内で本当に求めているのだろうか? 効率を求めた時,パラダイムシフトほど効率の悪い技術革新は無い.それは総合企業が衰退した部門を補う新しい分野の創造を求める活動では,ほとんど受け入れられない.企業の毀誉褒貶は自社内のパラダイムシフトではなく,新しく立ち上がった企業が既存の企業とのシビアな競争関係でか生まれていないのではないか.研究も同様であるということが言える.ある企業の講演で,こんなことを聞かれたことがある,「今日講義で新しい技術を聞いたが,そんなことを会社でして良いのでしょうか?」.企業人が公務員化した時に至るゴールは見える.
 理系では論文誌が電子ジャーナル化されて,大きく図書館の環境も,研究のスタイルも変わった.研究の多くの時間が,文献調査や読書,それに基づく思索から,データベースのキーワード検索にシフトしている.そのため,時定数が非常に短くなっている.大手出版社はその大学のデータから,この分野が貴大学には欠けていますよ…と余計な御世話で手を出しつつある.それをグローバル化や世界ランキングという評価指標で脅かしてくる.研究には適した場所がある.評価が高い大学で受けた教育が保証するものは何か,そこまで出版社は保証していない.当然,ランクの高い企業への就職と収入であり,日本がこれまでに経験してきた大学と企業の関係以上に何があるのか? まるで予備校の偏差値の議論を,大学院生,研究者に持ち込んだだけである.偏差値を上げるために高めの学生を受験させたり,あるいは同じ学生にたくさんの大学を受けさしたり,あの手この手で受け入れる側も,出す側も数値を上げる.同じことが生じている.
 自社として研究に投資せず成果だけを利用することで味を占めてしまった企業軍は,コンセプト,デザイン,品質,そしてマーケッティングを管理するだけの組織になりつつある.どの技術が使えるかを一早く見出し,人より先にローカルに取り入れ,一挙にグローバル化し,その先見ダッシュで市場を抑える.その繰り返しになっている.その一方で,電化製品の技術や構造のパラダイムシフトを実現し市場に送り出す企業も出現している.それらのせめぎあいは,そのまま大学の今後の姿かもしれない.あまり想像したくはないが.
 私が学生の頃,京大電気系の非線形分野には,原理主義,現象論,手法論のアプローチがあると言われていた.それらの二つは一つの研究グループから分かれたアプローチであり,他の一つはその外から持ち込まれたものである.少なくとも私が学んだものは現象の物理/数理的理解のアプローチであったが,学生の時そこから離れてデザインを志向した.その結果学位の遠い道を歩んだ経験がある.在外の時代に学んだものは,現象のモデル化と物理原則,そしてその工学的応用への意識であった.そしてその後,物理現象の原理に基づく制御も含めたシステムのシンセシスに向かった.その過程で私はアナリシスの方法論を目的とする手法論には手を出していない.なぜなら,現象の解釈を解析の方法論で示することはできないと考えるからである.今,世の中はアナリシスではなくシンセシスの時代であることを意識しおいて欲しい.私は決して過去の成果を軽視しているのではない.それらを理解した上で,さらに新たな止揚を求めるアプローチは,結局学生の頃にすでに求め始めたものであり,それをいろいろな経験から肉付けしたものである.それが唯一,この場所で研究を続けていけている理由であろうと思う.私に比べて遥かに聡明で,遥かに計算機の能力に長け,遥かに実験の技術を持つ方々を見てきている.今なら言えるが,後進に科学技術を伝えていく中継者として,かつ新たな学問の創生を求められる大学教員の資質としては,そういった能力だけでは不十分なのである.

5.おわりに 

流れに竿を差すことはいつの時代も無駄なエネルギーを要する.これから研究に加わる学生の方には,研究の本質を維持するためには,まず学ぶべき考え方と態度をきちんと理解してもらいたい.そして,学生である時間を大切に自らの能力を高めるために費やしてもらいたい.その手助けができる場が研究室である.その時に,何らかの手がかりにするのは,研究室の指導者であり,先輩であり,共同研究者であろう.その場が先にどのようにつながっているかをきちんと見極めてもらいたい.

謝辞: 

現在はお世話になった全ての方々のおかげである.改めて謝意を表したい.特に,昨年他界された平根善久先生(関西大学)は,私が博士課程を単位取得退学したあと,大学という場で研究者への修行を続けるチャンスをくださった方と言える.様々な状況は有ったが,その機会を与えてくださったことで今があることはまぎれもない事実である.その一点において深く御礼申し上げたい.また私の指導者を通じてそのポストへ導いてくださった,故 桑原道義先生 にも改めて感謝の気持ちを表したい.その繋がりがなぜあったかは,今はもう私しか記憶していない事実であろう.
研究は,それぞれの人同士の会合があって初めて芽生え,意味を持ち,世の中に現れ,そして人を通してサポートされるものであることを,改めてかみしめている.

年初の挨拶2016年版

2016年1月1日版

今年度も,研究室紹介,研究室選択,配属の時期がやってきました.本学の電気電子工学科が今の研究室配属の制度になったのは2003年度からです.この間の学生気質の変化,教員の入れ替わり,そして世の中の要請から,予定調和のように同じ方式が維持されています.京都大学工学部の大きな学科で,電気電子工学科は唯一コース制を敷いていない学科です.だから,修士までの6年間の教育期間で研究室選択・配属が折り返し点として大きな意味を持ちます.博士課程に進学を考えている人は,この一年を掛けて折り返し点を加速して通過することになります.以下,これまでの経験から伝えたいことなどをまとめています.新しい4回生には初めてのメッセージなので,参考になれば幸いです.

1.目の色 

気持ちが前向きな人の目は,本当にきらきらしています.なぜなんでしょうか.集中すると瞬きが少なくなり,目が潤んで,しかも顔を対象にまっすぐに向けています.そういう人たちの目がこちらを見つめている場に立つと,思わず怯んでしまいます.一方で,疑って掛かっている場面,興味を持っていないとき,顔が正面を向くことも無く,目も伏し目がちによそを見たり,あるいは目が合った瞬間に反らせる.本当に気持ちのありようがそのままに見えます.
 新入生,講義の初日の学生,研究室配属直後の学生,講演会で前に座った参加者,この人達の目は,自らの思考や有り様を反省させてくれるトリガになります.自分が,慣れてしまって,それぞれを個人として対応していないのではないかという反省,話す内容について直前まで万全の思いでその時に合わせて修正したかという自省,講演や講義中に反応に合わせて変更したか....などなどです.そして,伏し目がちの人たちが目を輝かせるまで自分の言葉で語りかけたかと,講義や講演後に反省します.そして自己嫌悪になります.
 中身のない話に目を輝かせるはずはありませんが,教員と学生,講演者と聴講者の出会いはその時,その場でしかないことにもっと真剣にならなければならないと思っています.話す側と聞く側は上下の関係にあるわけではありません.異なる立場に有る者が刺激を与える平等な関係です.それを引き出す努力がどれだけカリキュラムや講義法で尽くされているかが,昨今の大学教育の見直しにつながっています.アクティブラーニングというのは,教授という講義法では無く,課題設定を経て新たな知の創造を狙うという手法とも言えます.ですから,すでにその場に来た段階で教授は終わっているのです.本来,大学の研究室,ゼミに於いて少人数の教育としてORT(On the Research Training)の手法としてとっりいれられいる様々な手法を,教室に展開したものでもあります.MOOC, edX, COUSERAといった,様々なこれまで個別の大学の中でクローズされいた講義およびその手法が,ビデオとなって世界中に発信されています.その講義のありかたは,一度講義内容を理解したものには非常に魅力的で,教員でさえ多くの気づきを得ます.学生であれば,それを見てしまうと,現在自分が所属している大学の講義室,研究室で行われている講義や指導が,色あせたものに見えてしまうことは避けられません.それが現状です.一方で,出席を取って講義時間に学生を縛り付け,単位の実質化と称して作業に徹することを求めています.これはあまりにも矛盾した状況にあります.
 しかし,リアルな講義は不可欠です.双方がその場をどれだけ必要としているかに掛かっているのだと言えます.たとえば学生実験,実習が,講義時間の割に単位が少ないという不平を良く聞きます.それを聞く度に,この学生は社会に出たときに,それを自分に返すことがあるのかと苦笑いをしてしまいます.「掛けている時間に見合う成果をだし,利益を出しているか」と必ず問い掛けられます.無駄なこと,理不尽に思えることは,その人の知識が足りないからに過ぎません.演習は自分の限界を知ることです.そして限界を知ったとき,それに対処する手段を探す時成長します.自分の力だけでできる人は限られた人です.それを期待はしていません.しかし,一度その流れを知った人は自分でできるようになります.リアルな講義は,その時・場所における真剣勝負であらねばならないと思います.
 目の色は,講義のおけるセンサです.黒板を見て講義,パワーポイントの画面だけ見て講義,そんなことはあり得ません.ましては,ビデオは一方通行です.相互に目の色を見て,その内容をさらに高めることが講義の場です.そして,コアな部分は別として,毎年同じ講義など決してあり得ないということも言えます.合格ぎりぎりの人にも,先端を目指す人にも同時に成立する講義は,相互の関係に掛かっています.研究配属後の研究においても同様です.目の色,そして言葉,生活のありようを尺度として,今年一年も学生の方々に向き合いながら研究を進めたいと考えています.

2. 講義, されど講義 

昨年の講義で面白いことがありました.担当している全学共通の講義で,講義室の定員の関係で何人かが履修登録できませんでした.ところがそのうち数人が,「単位は要らないから講義を受けてよいでしょうか?」と言ってきて,登録ができた学生と一緒に,講義が終わってから毎回最後まで議論してくれました.私が学生のころの昔話をすれば,単位とは関係なく聴きたい講義を聴くというのは普通のことでした.単位などどうでも良く,成績などどうでもよい指標でした.しかし,今は違います.ゴールが明確であることを示すことが求められ,この効率ばかりで評価にする時代に,無理強いされること無くこのような態度を取る学生の考え方を面白いと思わざるを得ませんでした.PDCAなんていう,いかにも非生産的でくだらない作業とは全く相容れない活動です.
 私が受け持つ全学共通の物理の講義は,高校の物理から大学の物理への過程にあって,高校の時に与えらた現象の仮定を外す或いは考える対象としなかった現象を記述して解析し,そしてその一般化のプロセスを学習する内容です.一般的には,この習得を経た後にアドバンストの内容に進めます.そういう内容を単位とは関係なく理解することが重要であることは明らかで,この講義関連の内容で未だに沢山の論文が書かれ,等身大の物理から,ナノ,マクロとスケールを越えて多くのインスピレーションが得られる古典的分野です.
 同じ講義で,「既にアドバンストな科目を学習したからこれは必要ないと思います」と言い切られたこともありました.その学生さんと丁寧にお話しし,単位と関係なく一度聞いてみてはどうですかと進めました.それは,アドバンストな内容が基礎を包含しているという勘違いによります.アドバンストな内容は,学問の体系から一部をさらに発展させているケースが多く,基礎の全領域をカバーするとは限りません.そのため,新たな領域の展開には時間が必要です.一方で基礎領域は,横展開が可能な理論体系にまで仕上がっており,まだまだそこから新しい分野が生まれてきます.そのことから,一足飛びにアドバンストな講義を知るのも背伸びとして良いですが,一度その知識を持って基礎を見直すことが大切であることを理解してほしいと思っています.
 講義の内容は完成された手法を教えるものだけであってはなりません.そこから新しい分野への展開の知見を示さなければなりません.それは教える側がすることではなく,習う側が他の知識と融合することによって見いだすことになります.講義とはそのようなひょっとしたらこれは関係があるのではという直感と確認作業の練習の機会なのです.一方で,教える側も新たな理解を講義で問いかける挑戦もしています.3年経ったら講義法,講義内容,ストーリーを見直すことで,自ら新しい研究領域の発見につながります.そのような日々の作業が,研究の広がりと深さを生み出します.教員と学生が相互のそのように研究を深めて行く場が大学であるとすると,リアルな場なしに,先端まで出て行くことは非常に難しいと言えます.

3.研究する? 

京都大学で研究を経験することは,身近に世界の最先端,最外縁,あるいは前例の無い領域で,既存の理論・手法ではたどり着けない知見があることを知ることになります.その姿を見ることで,自分がそこにたどり着けなくても,たどり着くという研究という行為を知ることになります.このような先端の研究行為に触れた人にしか,研究の必要性,あるいは重要性が分かりません.シンパの人たちを育てることも研究室の重要な役割です.
 卒論の試問,修論の公聴会でそのオリジナリティはなんですかと尋ねる教員が居られます.あまり深い意味が無いのかもしれませんが,学生がそれを自ら答えられるとしたら,それはとんでもなく素晴らしいことだと思います.簡単に,周囲の研究状況,自らの位置づけを問うのとは違います.そこまで検討を尽くして研究を進めていることはほとんどありません.とすると,先生がそういった,人がそう言った,どこかに書いてあったということにしか過ぎないのです.そのことを見直してみましょうという示唆と言えます.
 研究は研究へのアプローチ方法を学ぶことからはじめます.先人たちがまとめてくれた図書,論文から学びその思考を自らなぞることで形式を学びます.その中で,矛盾,限界,展開について学びます.そして,少し冒険してみる.こういうことは別に研究室で無くてもできます.しかし,集中して短期間に訓練することで身に付くものです.その際に,研究室のものの考え方,アプローチの仕方が大きく影響します.明らかにその指導者そのものの考え方が入り込んできます.
 「研究する」とは何かを考えて見ましょう.大学には,既存の技術や現状を分析する解析に根ざす学問体系(アナリシス)と,ボトムアップに既存の技術を基に新しい価値観や技術を展開する,あるいは横にシフトする合成・統合(シンセシス)の体系があります.世界の技術の歴史はこの繰り返しです.なぜアナリシスが必要かを考えると,これまでは個人の中でシンセシスされ,職人技として完成された技術が現代科学の基礎となっているからです.その突出した技術を蓄積し,敷衍することが,職人間の相伝,それを集積した大学にだけ許された権限でした.研究の情報となる文献を手元に持っている者に解析が可能になり,他と違う主張が可能になりました.これは,何も研究者が偉いわけではなく,持てる資産に頼った独占的な行為だったのです.現在,研究に関する情報は品質は別としてネット上で容易に集まります.以前では一週間以上掛けて集めた情報が,秒で集まります.その意味で,優先的に使える情報を有し,優先的な利用を可能にする大学という組織は意味を失いました.講義もそうです.
 世の中が求める研究の質の変化に日本の大学は明らかについて行っていません.少数の研究者が自分の有り様を肯定する,知見を解析した論理の妥当性を開示するという研究,そしてその講義は,追いつけ追い越せという時代の名残です.物事の本質は何かを追求するまでには至っていない生なものが示されていました.それを再び,学習する学生が解析するということの繰り返しででした.このタイプの研究にもとづく追いつくための教育が必要とされた時代の教育者・研究者育成の手法でした.ですから,大学で習ったことはなんの役にも立たないという先輩の企業研究者・技術者が多かったのは当然のことです.
 一方で,何もないところで何かを生み出すということは,どういうことかを大学で全く教えていません.科学史を学ぶことはワクワクします.電気電子工学科で言えば,電気磁気学の講義と実験がその歴史的発展の流れを講義の中で再体験するする機会を与えています.その上で低次元の対象としての回路理論があり,物性物理があります.もっと,その必然性を学び治すことが必要だと思います.否定されたエーテルの存在が再び議論されることは,結果から見えるものではありません.重要なことは,仮定し,条件付けして抽象化して中で,当面は考えないことにした事実です.そこから始まる世界が,過去の蓄積から始まる,最初の一歩です.
 その様な練習のあと,統合することによる一歩があります.博士課程の学生にはいつも必ず3つの異なる仕事をするようにと指導します.理論,計算,実験でも良いですが,それは手法に過ぎません.半導体,回路,システムならば対象の物理の違いとなり,知見を広げます.電気機器,制御,メゾ領域の電磁気学でもかまいません.それは自分の興味や能力に依存します.そのことに意味は,それぞれの課題で行き詰まったときに明らかになります.その時が来たら,これを読まれた人は思い出して下さい.自らにそのノルマを課せる人であれは,研究者として生きていけると思います.逆に避けた人は,別の道を選ぶことを薦めます.そのような人に指導された学生が自分が経験した以上のことができないからです.大学の研究者は後進を育てる人です.だからこそ完成した存在を目指さなければならないと思います.これについては繰り返しになるので,過去に書いた文章を読んで下さい.

4. 思うこと 

世界も,日本も,大学もグローバルなリーダーを作り出すと言っています.「すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる」と慶応義塾大学塾長であった小泉信三の言葉があります.現状を批判して改革を唱えるのは,単純な改革型の大衆迎合です.それを政治家が言うことは世論対応としてはあり得ますが,大学人が自ら唱えることは自己矛盾です.それを唱えたら最後,大学は自らツケをを払うことになります.既得権益の受益者を敵とするという大衆迎合を打つと喝采をあびるという単純な構造は,有るときは公務員改革,有るときは企業経営刷新,有るときは市場開放などに向かいます.そして手が無くなると教育改革を打ち出すのは,世界中で見られる状況の繰り返しです.そして,それを意図してコピーしている我が国の為政の問題は,肝心の問題から目を逸らせる方策に過ぎません.ほとんどの人が分かっていても声高に言えない世の中の状況こそが危ないことです.システムが大きく変わるとき新たな利権が生まれます.要するにそれを欲する行為に他なりません.
 我々は所謂ロスタイムに生きているだけなのではないでしょうか.だからこそ,チャンスもあればあきらめもあります.多くの雑音は,当事者でないものの声援と罵声に過ぎません.ロスタイムは結果から繰ると忘れられるものです.だからこそドラマがあるという気がもます.一方で,ロスタイムまで持ち込んで来たこれまでの蓄積無しにはこの一瞬一瞬があり得るはずもありません.
 既に誰かが始めたゲームで,人が決めたルールの下で上位に登ることは演習です.その中でトップに出ることは組織として分析し,資源を集中し最適化することで可能になります.必要なことは,突き抜けた上で新しいゲームを始めることです.これまでのものを理解せずに否定し,また既成概念を否定し,チームと組織ごとガラガラポンと解体することを一見革新の様にいう人がは、既得権への挑戦という美酒に酔います.しかし限られた組織を素人組織に戻すに過ぎません.歴史を見ても何度もあら合われる稚拙な改革です 注1).
 大学の教育の姿が大きく変わりつつあり,一人で理解するまで自学自習として勉強するのでは無く,多くの人で共同学習し,そのアクティブな経験から,人の知見を駆使して,新たな概念の可能性をテレビゲームのように試し,負けたら次をトライするといったあり方が今もてはやされる教育システムです.講義中に行うゲーム感覚の投票システムや,そのリアルタイムの表示がなされます.もう十分です.衆愚のクラウド型勉強が「すぐに役に立つ」という学習としてもてはやされます.でもなんだか,日露戦争の二百三高地の戦略(司馬遼太郎の小説から)を見るような気がします.どこに目標があるか分からないまま.....

5.おわりに 

学問は知識の優劣を競う種目ではありません.論理を尽くすことであって,強弁による勝ち負けでもありません.相互に未完成な複数の論理を同時に当てはめ,それらの上に新しい論理が組み立てられるか,あるいは包含するかといったことを,真摯に考え続ける無償の行為です.その訓練ができ,姿を見ることで実践に臨める教員を見つけ出し,自らをボーダーの外に押し出してくれる指導者を選ぶことが研究室選びだと思います.この機会を大切にして下さい.

6. 追記 

昨年のお正月以降に聞いたわかり易い言葉をアレンジして記しておきます.
1.やらないリスクより,やったリスクを取ったほうが後悔しない
2.なんでもやってみること
3.失敗したらやり直したら良い,だから楽しくやること
4.でも,安易な低いところに流れずに,難しい方向に挑みなさい
5.その姿にならサポートしたいと思う
注1) 大学の既得権とは,学生定員,学位審査権,そして人事権です.それが組織改革および教育と直結しています.