2020年3月29日日曜日

年初の挨拶2004年版

おそらくこのページをご覧になる方は,他の研究室では何をしているのだろう,自分の研究分野をどこにすればよいのだろう,といった意味で参考になるものを探しておられるものと思います.これに関して,私見を述べます.

 学生のみならず,多くの研究者の方々は,今世の中でもてはやされているテーマ,良く聞くキーワードを含む分野を研究テーマとして行きたいと考えられる方が多いと思います.言うまでもなくそれは既に完成されたテーマであり,勉強を始めた時点の流行のものの見方では,すでに終わったといえるかもしれません.研究者,技術者として第一線に立つまで5年以上の時間的経過が必要であることを考えますと,世の中の興味は大きく変わってしまうことを良く理解しておかれるべきでしょう.もしそのテーマを選ぶとすれば,基礎からもう一度テーマを洗いなおす覚悟を決めて,挑んでいかれるべきでしょう.
 肝心なことは,テーマの流行ではなく,その分野でのアプローチをどのように学習するかです. 多くの場合卒論は,与えられたテーマに対して手法の提示を受け,いかにアプローチするかを 学びます.演習といっても良いかと思います.この時点で研究室や大学を替わる人がいます. そういう人も,すでに卒論の訓練を受けているので,研究室から大学院へ行く人と同様の 訓練を受けていると考えてよいと思います.但し,使う用語や手法の違いが基礎からの勉強を 必要とします.修士課程は,与えられた目標に対して,提示された複数の手法から 自らその適切なものを選択し,どのようにすればその目標に肉薄できるかを 訓練する過程と考えられます.そして,博士課程は,その目標自体を自ら設定し,手法の検討 の下に成果を世に問う訓練をする過程と考えます.それぞれの過程に不可欠な訓練があり,それを 一足飛びに卓越した成果を得,世の中の評価を受けることはなかなか難しいものです. 従って,自らのモチベーションが途絶えない分野で研究開発をすることが最も重要なことだと 思います.そして研究者としては,最終段階で対外的に自ら奉仕し,他による認知 を得ていくことも重要です.最も忌み嫌うべき行動は,どこかに何か面白いことはないかと,視点が定まらないまま次から次へと流行のテーマを渡り歩いたり,人のテーマに飛びついてしまうことです.
 一度ひとつの分野で先端まで出ると,他の分野への洞察も可能になります.その結果,研究の幅を横に広げ,これまでにやってみたいと思ったテーマにまで挑むすることが可能になります.それは一番重要なことであり,次の世代のテーマを構築するのはこういう研究活動であるとも言えます.研究で重要なことは,先生,先輩,他の研究室の人,学外の方と議論することです.そういう環境でこそ新しいものが生まれていきます.どの研究室も日々同じ状態に留まっているようなものではありません.常にアクティブに動いています.そういう活動を通して研究を見られることを希望します.また,人のテーマは良く見えます.論文がたくさん出版できるテーマは研究者として生き始めた者にはうらやましく思えます.でもそれは研究テーマの本質とは何ら関係はありません.一生のテーマとできる課題を見つけたことを幸せに思うことも重要です.
 さて,工学部の研究は得てして応用研究と考えられています.しかし,最終結果が応用かもしれませんが,その対象は自然現象の制御であったり,脳や生体機能の模擬であったり,複雑な人工システムの設計や制御であったりします.それらは,18世紀,19世紀には森や川のように人間の周囲にあった自然と同じように,人間の関わる環境なのです.その現象や環境をSicence の観点で見つめなおすことが最も重要なことです.前世紀の終りまで,人間の扱える知識と能力は平衡点の周辺の分かり易い現象に限られてきました.さらに大域的な空間にまで理解を広げることが必要とされています.その中で,新たなモデルを見出し,再び人間のコントロール化に復させるEngineering Scienceを目指すことは,工学の本質的に取るべき方向だと思います.

年初の挨拶2005年版

<工学部電気電子工学科の研究室配属に関連して>
 京都大学工学部電気電子工学科の配属研究室の一つとして,学部生の特別研究テーマを提供し,指導をしています(以下特別研究を卒業研究と呼びます).従来卒業研究を研究の一貫として考え,各自の興味を考慮してテーマを決定してきました.しかしながら,最近の四回生の基礎能力不足の状況はこれを危うくしています.電気電子工学関連の基礎科目に関する知識不足は後で補うことは可能ですが,数学,物理,および一般教養と呼ばれる技術者および研究者としての資質のバックグラウンドとなる自然科学的教養,さらには論理的思考能力,作文能力は四回生の時点で修得するには遅すぎるものだと考えられます.それにもかかわらず,自分にその能力が不足していることを自覚せずにいる方が非常に多く,研究室配属後その指導のためにかなりの精神力と体力を持って対応せざるを得ない状況となっています.
 大学生の学力不足が叫ばれはじめてから久しいですが,工学部ではその対応を京都大学の教育の伝統である自学自習で補わせています.それは京都大学が自らの指導を放棄しているのではなく,それを自ら修得する人のみを研究の後継者として認知することを歴史的に続け,それが最も良い方法であったからです.学生に迎合することでその手法を放棄したとき,京都大学は研究大学としての存在を失うことになります.しかしながら現実にはその自学自習をどうすればよいか分からない人が多く,指導を求める声が強くなっていることも事実です.その主たる原因は,大学以前に教育指導要領の改訂に続く改定で基礎学力不足となっている状況と,高校を含めた受験産業の隆盛によるテクニックのみの知識の詰め込み,そして幼少期からの生活を通した観察に基づく科学経験の不足にあると考えられます.このような大学における指導に不満をもつのみの方は,残念ながら研究という知的活動に適合する準備が全くできていないことを自覚していただきたいと思います.
 研究者,技術者としての専門教育の講義を受けた現時点で,卒業研究は研究へのモチベーションに基づきその切欠をつかむ最後の機会です.与えられたものをこなす受験の能力の延長では,京都大学の卒業生としては充分ではないことを理解してほしいと思います.その上で自分に足りない能力を補い,さらには研究のモチベーションを維持できる研究テーマと指導者を選択するよう心がけて下さい.

<大学院での研究について>
 学生のみならず多くの研究者の方々は,今世の中でもてはやされているテーマ,良く聞くキーワードを含む分野を研究テーマとして行きたいと考えられる方が多いと思います.言うまでもなくそれは既に完成されたテーマであり,勉強を始めた時点の流行のものの見方では,すでに終わったといえるかもしれません.研究者,技術者として第一線に立つまで5年以上の時間的経過が必要であることを考えますと,世の中の興味は大きく変わってしまうことを良く理解しておかれるべきでしょう.もしそのテーマを選ぶとすれば,基礎からもう一度テーマを洗いなおす覚悟を決めて,挑む必要があります.
 私が学生のときK教授から次のような言葉を頂きました."研究の遂行に当たって,みんなが前を向いているときには後ろを向いて走りなさい.みんながあれっと思って振り返り,そして追いついて来た時には90度方向を変えなさい." このように研究の先頭を維持していくには広い教養が不可欠だと思います.基礎から,原点から全ての研究を洗いなおす余裕のある研究分野を私は選んできました.そして可能な限り配属された学生の方には,そのような研究の遂行を希望しています.そういう時,よく専門家と称する方は それは何に役に立つのか?と問い掛けます.この問いかけは実学の中では大切なものです.しかし萎縮してはいけません.この問いかけは京都大学が求めてきた研究の姿勢とは異なっています.すなわち今の実学への益の有無とその形態を維持する活動で京都大学がその存在をアピールしてきたのではありません.既存の知識の基礎の上に,総合的な知識の再構築に基づく新しい学問・応用分野の創出を本務として来たのです.
 さて,肝心なことは,テーマの流行ではなく,その分野でのアプローチをどのように学習するかです. 多くの場合卒業研究は,与えられたテーマに対して手法の提示を受け,いかにアプローチするかを 学び,演習することです.この時点で研究室や大学を替わる人がいます. そういう人も,すでに卒論の訓練を受けていると考えます.修士課程は与えられた目標に対して,提示された複数の手法から 自らその適切なものを選択し,どのようにすればその目標に肉薄できるかを 訓練する過程と考えられます.そして,博士課程は,その目標自体を自ら設定し,手法の検討 の下に成果を世に問う訓練をする過程と考えます.それぞれの過程に不可欠な訓練があり,それを 一足飛びに卓越した成果を得,世の中の評価を受けることは不可能です. 上述したように自らのモチベーションが途絶えない分野で研究開発をすることが最も重要なことだと 思います.そして研究者として,最終段階で対外的に自ら奉仕し,他による認知 を得ていくことも重要です.最も忌み嫌うべき行動は,どこかに何か面白いことはないかと,視点が定まらないまま次から次へと流行のテーマを渡り歩いたり,人のテーマに飛びついてしまうことです.大学院の指導のもとで,こういった研究の態度・倫理を学習することを希望します.

<研究について(その2)>
 一度ひとつの分野で先端まで出ると,他の分野への洞察も可能になります.その結果,研究の幅を横に広げ,これまでにやってみたいと思ったテーマにまで挑むことが可能になります.それは一番重要なことであり,次の世代のテーマを構築するのはこういう境界を拡張する研究活動です.さらに重要なことは,先生,先輩,他の研究室の人,学外の方と議論することです.そういう環境でこそ新しいものが生まれていきます.どの研究室も日々同じ状態に留まっているようなものではありません.常にアクティブに動いています.そういう活動を通して研究を見られることを希望します.また,人のテーマは良く見えます.論文がたくさん出版できるテーマは研究者として生き始めた者にはうらやましく思えます.でもそれは研究テーマの本質とは何ら関係はありません.一生のテーマとできる課題を見つけたことを幸せに思うことも重要です.同時に既存の分野を基礎から検討しなおすことは,新しい分野の創生につながることも頭の隅に置いておいてください.
 さて,工学部の研究は得てして応用研究と考えられています.しかし,最終結果が応用かもしれませんが,その対象は自然現象の制御であったり,脳や生体機能の模擬であったり,複雑な人工システムの設計や制御であったりします.それらは,18世紀,19世紀には森や川のように人間の周囲にあった自然と同じように,人間の関わる環境なのです.その現象や環境を Science の観点で見つめなおすことが最も重要なことです.前世紀の終りまで,人間の扱える知識と能力は平衡点の周辺の分かり易い現象に限られてきました.さらに大域的な空間にまで理解を広げることが必要とされています.その中で,新たなモデルを見出し,再び人間のコントロール下に復させるEngineering Scienceを目指すことは,工学の本質的に取るべき方向だと思います.

<大学院での研究室選択について>
 大学院での研究室の選択は,研究の指導者の選択に通じます.自らその考えに共鳴することができる,あるいはその考えに反論することで新しい分野を構築するに足る相手であるべきだと思います.私は配属された学生に自分の手足を求めることはありません.共同研究者に足る資質を示し,よき研究のパートナーになって頂くために全身全霊で向かっていきます.そして大学を卒業した社会人と同じ年齢である以上,義務と責務を守った態度を求めています.私どもの研究室は,この点を前提に選択をしていただきたいと思います.  我々の研究テーマは Engineering Science であり,主として非線形力学の工学的応用です.その実現がパワーエレクトロニクス,電力工学,磁気浮上,ハイブリッド系,電磁機械系など多岐に及びますが,基本的には従来の工学システムの線形の枠組みを拡張して新しい電気工学の分野の開拓を目指しています.前例のないテーマになるケースがあり,多くの学生の方には実験システムの開発,システムのモデル化から制御まで幅広い検討を求めています.研究室を選択される場合は,少なくとも非線形力学への興味,制御の実験的展開,電気エネルギー分野への興味などが望まれます.指導者の研究については,それぞれの論文リストから適当なものをダウンロードして読んでいただくことを希望します.そして,我々の考えを理解いただければと思います.
 なお,いくつかの書籍は,研究の遂行上必要と考えています.可能な限り自ら学習していただきたいと思います.

年初の挨拶2006年版

 研究室選択の一助としてこのホームページをご覧になる方に対して,研究室の指導に関連して本年も私見をまとめてみました.賛否両論有ると思いますが,あえて公開します.

<電気電子工学実験・実習から研究へ>
 京都大学工学部電気電子工学科の研究室配属は,現在電気電子工学科の専門科目および全学共通科目で学生が取得した成績と本人の希望に基づいて決定されて います.2003年までは,学生の皆さんの協議でその方法が決定されてきました.どの方法を取っても,その結果に不満があることは避けれませんが,現状に ついては今後,その結果にもとづいて評価される必要があると思います.
 さて,電気電子工学科の学生が特別研究(卒業研究)に至る前に唯一の必修として電気電子工学実験,実習があります.皆さんが4回生になられたとき, はじめて個人の総合的な能力を問われることになりますが,電気電子工学実験,実習における実験,レポートの繰り返しに対して,いかに真剣にあるいは素直に 学習してこられた(こられなかった)か,如実に現れるといっても過言ではないかと思っています. 残念ながら,現状では多くの方はルーチンをこなすことに徹してこられたためか,それぞれのテーマに対して求められた物理的現象に対する考察 が十分ではないことが多いようです.メインレポーターであるときは,データに対する真摯な検討を訓練する機会を与えられたと考え作業から実験の精度や手法 を検討しながら考察しますが,サブレポーターの時はデータの定性的な特徴から物理的な洞察を行うことになります.しかしながら,現状はどうでしょうか?サ ブレポーターはレポートが休みと考え,実験の作業者に徹しているのではないでしょうか?現在社会人となった先輩方といえども,求められていることを実行で きたわけではありません.しかしながら,重要なことはそういう実験に対して自分なりに何らかを経験し,現象に対する記憶を残すことであると思います.
 情報系,物性系,システム・エネルギー系,・・・それぞれ自分の将来像を描いて勉強し,研究に従事することを希望して学年を進めてこられた4回生は,そ の研究室,研究テーマの選択が将来を決める重要な分岐点となることは言うまでもありません.その希望が叶わないときに皆さんはどうされるでしょうか? 失 望してあきらめる? 妥協して希望を修正する? 人間いたるところ青山・・・として自らを律する? 最後のような学生は最近では少なくなっています.私 は,決して自分の希望を捨てる必要はないと考えます.所詮卒業研究の研究室,テーマ選びにすぎません.自分の電気電子系としての感性を磨き上げるのはどの テーマでも,遜色はないのではないでしょうか? 卒業研究として設定されたテーマに対して,自分がどのようにアプローチできたか,その達成度を自らに問う ことが最も重要なことと考えます.そして,大学院において,あらたな研究室を選ぶことも可能ですし,就職において希望通りの研究に着手することも可能で す.重要なことは,自分の専門能力の幅をどれほど深く,広くするかにあると思います.この点を忘れて,テーマの表面的な人気やはやりで選択をされているこ とはないでしょうか? その結果確かにボキャブラリーとしてその分野に知見を持ったように見えるかもしれませんが,その実何も身についていないことはない でしょうか? 私は,研究者,技術者として大切なことは実験で身に付いた と自分で言えない人は,もう一度,電気電子工学実験・実習とは何であったかを考 えて見られることを希望します.そして,自分の本来の目的・希望に肉薄して行くだけの頑迷な意思を実現して頂きたいと常々思っています.
 最近の四回生の基礎能力不足の状況は目に余るものがあります.電気電子工学関連の基礎科目に関する知識不足は後で補うことは可能ですが,数学,物理,お よび一般教養と呼ばれる技術者および研究者としての資質のバックグラウンドとなる自然科学的教養,さらには論理的思考能力,作文能力は4回生の時点でも, 不十分です.問題は,自分にその能力が不足していることを自覚せずにいる方が多く,研究室配属後その指導のためにかなりの精神力と体力を持って対応せざる を得ない状況となっています.4回生までとそれ以降の勉強で根本的に異なることは,4回生までは無目的の勉強であり,それ以後は合目的な勉強です.理解は 後者が進みます.ところが,新しい現象,テーマに対応できる能力は,前者に基づきます.それを自覚できるのは,博士課程に進学したとき,会社で研究推進を 担当することになったとき等々です.
 4回生の人に申し上げたいことは,自分の将来の希望があるのであれば,4回生までにご自分の幅と深さを意識されることだと思います.自覚して足 りないことがわかれば,自ずと自分が行うべきことは明快です.大学受験まで身に付いた要領の良い勉強を続けている限りは,その先に希望はありません.なぜ なら,学習でない研究に要領は通じないからです.

<研究テーマの創出ついて>  
 研究テーマをどうやって見いだすのか? 教員となった研究者でもこれがわからない方が多いようです.博士を持っていても,自らテーマが創出でき ない『ドクター・ストップ』状態の方が多いのも事実です.テーマは,身の回りに有るというのは言い過ぎかもしれませんが,工学分野であれば,従来の技術が どういう物理に基づいているかの精査を行えば,その応用展開や類型への展開は可能であろうと思います.そういう,水平展開の研究は工学では常套手段です. ところが,現在,大学でも社会でもオリジナルな研究を求めすぎています.オリジナルとは何でしょうか? 社会基盤を変えるほどのオリジナルな研究は,どこ から生まれるのでしょうか? 過去のオリジナルな研究の精査なくして,本当にオリジナルが何かわかるとは思えませんしまたオリジナル性の評価ができるとは 思えません.その研究分野の本質的な研究成果をくまなく調べることは,研究者として必須の活動です.そして,古典的な研究が理解された後,今はやっている 内容に対してその仮定,結論の限界を見極めることだと思います.いかがでしょうか?
 さて,肝心なことは,テーマの流行ではなく,その分野でのアプローチをどのように学習するかです.多くの場合卒業研究は,与えられたテーマに対して手法 の提示を受け,いかにアプローチするかを学び,演習することです.修士課程は与えられた目標に対して,提示された複数の手法から自らその適切なものを選択 し,どのようにすればその目標に肉薄できるかを 訓練する過程と考えています.論証は重要です.自らがアプローチしているテーマに対して,論理的に矛盾のない議論を組み立てる能力をどのように構築するか が重要です.作業仮説の検証ということを言う方がありますが,それは適当ではありません.なぜなら対象の本質を知らないときに作業仮説が立てられるはずは ないのです.あるのは,すべてをくまなく検討する作業とそれに基づく論証です.そして,博士課程は,その目標自体を自ら設定し,手法の検討の下に成果を世 に問う訓練を行います.それぞれの過程に不可欠な訓練があり,それを一足飛びに卓越した成果を得,世の中の評価を受けることは不可能です. 上述したように自らの希望分野で研究開発をすることが最も重要なことだと思います.そして研究者として,最終段階で対外的に自ら奉仕し,他による認知を得 ていくことも重要です.最も忌み嫌うべき行動は,どこかに何か面白いことはないかと,視点が定まらないまま次から次へと流行のテーマを渡り歩いたり,人の テーマに飛びついてしまうことです.学部・大学院の研究指導のもとで,こういった研究の態度・倫理を学習することを希望します.

<研究者とは>  
 研究者とは何でしょうか? 京都大学の理科系に進学した方ならば少なからず有名な賞を受賞した研究者にあこがれを抱いて自分の勉強を続けた方が多いと思 います.私もそうです.百万遍の古本屋で福井謙一先生と同じ場所に居合わせて同じ棚を見ていた自分,友人の結婚式で挨拶をたのまれ,そこにおられた有名な 先生に失笑を買ったものの暖かい笑顔の思い出,それらは逆に自分をそこまで持って行きたいというモチベーションになったと思います.どの先生方も,決して その業績にたいして奢らず,初学者の学生に対して真摯に教育してくださったと思います.教育とはそういうものだと思います.京都大学は,On Research Training を実行してきた大学です.その Research は,それぞれ本当に世界に第一線にあると思います.ただ,自分の興味とそれらが一致するチャンスは限られています.先に述べたように,自分の希望(先入 観)にとらわれて生きることも重要ですが,そういうチャンスをものにするために自らの感性を磨くことも重要なことだと思います.大学では,研究者は企業人 ではなく教育者です.教育の中で研究を育み,研究の中で教育を実行する,これを忘れた大学が多すぎるのではないかと思います.京都大学で研究を始めたみな さんは,その点を決して忘れないようにして頂きたいと思います.

<大学院での研究室選択について>  
 大学院での研究室の選択は,研究の指導者の選択に通じます.自らその考えに共鳴することができる,あるいはその考えに反論することで新しい分野 を構築するに足る相手であるべきだと思います.私は配属された学生に自分の手足を求めることはありません.共同研究者に足る資質を示し,よき研究のパート ナーになって頂くために全身全霊で向かっていきます.そして大学を卒業した社会人と同じ年齢である以上,義務と責務を守った態度を求めています.私どもの 研究室は,この点を前提に選択をしていただきたいと思います.
 我々の研究テーマは Engineering Science であり,主として非線形力学の工学的応用です.その実現がパワーエレクトロニクス,電力システム工学,ハイブリッド,電磁機械系など多岐に展開されます が,基本的には従来の工学システムの線形の枠組みを拡張して新しい電気工学の分野の開拓を目指しています.前例のないテーマになるケースがあり,多くの学 生の方には実験システムの開発,システムのモデル化から制御まで幅広い検討を求めています.研究室を選択される場合は,少なくとも非線形力学への興味,制 御の実験的展開,電力工学への興味などが望まれます.指導者の研究については,それぞれの論文リストから適当なものをダウンロードして読んでいただくこと を希望します.そして,我々の考えを理解いただければと思います.    

年初の挨拶2007年版

1.研究室配属について 

3回生後期になるとそろそろ自分がどういう研究室に配属され,どういう研究を進めることができるかを考え始める頃だと思います.自分が電気電子工学科に進学したときに持っていた夢と現在の希望は異なっているかもしれませんし,そのまま夢を追い求めている方もいるでしょう.ここ2年間,1回生の電気電子工学概論でイントロダクションの講義を受け持つことになり,改めて自分なりに考えてみたことを以下に少し書きます.
・原典をたいせつにする  今や,新しい発見,発明が電気電子工学の分野でありえるのか?といった意見を聞きます.つまり,もう電気電子工学はほぼ完成し,十分役に立つ製品,装置,システムが世の中に出回り,研究としてなすべきことは無い という意見です.子供の頃から携帯電話があり,インターネットは当たり前,パソコンは一人一台,車はハイブリッド,ロボットはTVで人と一緒に踊っている といった世の中で,これ以上何が必要なのかと考えてしまいます.技術に関する渇望感は今の日本の社会ではほとんど見受けられません.次に何が必要なのかと考える前に,今の技術がどのようなものであるかをもう一度見直してみることが必要です.世の中に一つの技術が広がり,あまねく同じ装置,システムが行き渡るということは,人間の活動を同時にその中に拘束してしまうとになります.それは同時に,人に寄与するという視点(大域)から,システムを維持し同じ環境を続けるという視点(局所)への転換を生みます.その時,あり得るのはシステムの平衡状態近傍での微調整のみとなります.これは今の技術の流れのほとんどの場合に当てはまります.いろいろなシステムの社会的な位置づけの矛盾なども,このシステムを維持するという観点からは無視され,利用者個人の問題と片付けられます.ほんとうにこれでよいのでしょうか? 何がより良いものであるかはわかりませんが,それを何らかの数値的目標を決めて最適化を図るのが今の技術から生まれる経済です.  日本の今の学生に欠けている点は,技術の流れとその拠り所とする原理,そして次にどのような原則を構築して行くべきかという学習と視点です.電気電子工学概論の講義の中で,私は皆さんに電気電子工学が拠り所としてる数学のほとんどが19世紀中までのものであり,その後の数学の発展を消化しておらず,物理は20世紀初頭の量子力学までで,個別の事例を除けば,素粒子に至る物理は工学にまでは至っていないことを述べています.従って,現在世の中で人気のあるもの,脚光を浴びているものを追い求めることは,技術の一つの枝から伸びは枝葉末節を確認する作業にすぎないのです.仮に大きな技術的な展開があるとすれば,それは幹からのびる別枝に移るだけの大きな視点の変化が必要と成ります.それを見いだせるためには,現在の技術からそのよりどころとする数理物理の原典に立ち返り,その原理を再度見つめ直して展開を図ることです.その意味で,技術の系統樹のそれぞれの内容をもう一度見直すことを奨励しています.計算機は今では電子式が当たり前ですが,その原典は機械式です.力学原理を用いてメモリを作り,そのメモリへの力学的アクセスで演算を行う・・・それが真空管からトランジスタに変わり現在に至っていることは言うまでもありません.だから,機械式の勉強は不要であるというのは,一つの枝の上の議論にすぎないということを上に述べています.たとえば,DNA をメモリに使うといった考えは,計算機とはどういうものかという原典に戻り,新たな枠組みを提示するものに成ります.それらを実現するためには,新たな物理計測,その裏返しとしての制御が必要と成ります.一連の技術的課題は,計算機なるもののあり方(チューリングマシン)に合わせるのであれば,別の枝と並行してDNAコンピュータの枝が伸びて行きます.  別の観点を述べます.原典といわれる論文を読まずに,最近の洪水のように出る手を換え品を変えた論文にばかり目を向けてしまうことで,大きな落とし穴が生まれます.それは,途中の論文(論文はある研究者の考えを含む一般原理の提示である・・・すなわちそうでないものは論文とはならない)で棄却された考え方を,知らず知らず後のものが無視していることです.論文といえども研究者の心理を反映し,その人の栄達や野心を反映しています.そのため,政治的な動きも含まれてしまいます.それを無意識に踏襲することで,幹からのびる多数の枝の方向を知らずに,枝の途中から伸びた短い枝を本枝と思ってしまうことです.  同じことの繰り返しになりますが,必ず技術・法則の原典に戻り,そこに含まれる創造者の思考の多様性を自分の意識で追体験し,研究を洗い直して行くこと それが研究者に求められることであり,それなくして研究者にはなれません.原典を引用していないような論文は,結局は一つの小枝を接ぎ木してあそぶ行為でしかないということを心しておいてほしいと思います.
・研究室のもつ原理原則  電気系の研究室(分野)は,電気電子工学という幹から出た枝です(もちろん電気電子工学が物理という幹から出た枝と言うことも言えます).それぞれの枝には伸びる原理原則があります.それらの研究室を選択することは,この枝の原理原則を選ぶことになります.もちろん,その枝を手入れしている庭師の人(教員)を見て選ぶという考えも成立します.いずれにせよ,そこで得る指導は,原理原則の理解と手法の繰り返しの練習となります.  我々の研究室が原理原則とするものは「非線形動力学の理解と応用」です.それは他の研究室とは異なるものでなければなりません.物理界は基本的に非線形な世界です.その性質を理解することを電気電子工学という Engineering Science を通じて行っています.従って対象は,電気エネルギーネットワークから,パワー回路,パワーデバイス,MEMS,そしてそれらの制御と広がっていますが,その研究のよって立つ原理は同一としています.決して闇雲に適当にはやりのテーマを集めている訳ではありません.
・研究の指導  研究室の研究を継続的に行って行くためには,先輩から後輩によるグループを作り,その中での指導で研究を進める方法があります.しかしながら,我々はそのような設定は行わず,各人が独立のテーマで,独立の手法で課題を見いだし挑戦することを重要視しています.理由は,研究テーマは既に存在するもので,学生はそれを指導の元に実施して行くだけという意識を与えないためです.たとえば企業に就職し,コンセプトを与えられた後その製品を開発する場面を想定してみて下さい.だれがその課題を具体的な問題として与えてくれるのでしょうか?   いつの世も「今時の学生」論があります.あえて言えば,今時の学生は,課題が常に目の前にあるものとして考え,それを効率よく(楽に早くミスが少なく)解くことを考える傾向が強い と言えます.しかも答えを求める.それは,受験勉強の弊害の最たるものです.人の理解能力のテストを行い,その順列をつける方法はそれで良いのですが,個人の能力の向上としてはそれでは不十分といえます.従って,研究室における研究指導は,この点を修正することに最もエネルギーをつかいます.自分が秀才と自負し自信のあるひと程,この指導が難しいということを書いておきます.卒業まで自らを修正できなかった人は多数居ます.  だれしも,一足飛びに研究者になれるわけではなく,それぞれの年次に応じてすべきことがあります.卒業研究では,課題に対して提示された手法を用いてアプローチし,その課題を理解すると同時に手法の運用能力をつけます.修士の研究では,課題の妥当性を検証すると同時に,提示された複数の手法から客観的に適切な手法を選択し,その課題の理解と展開を図ります.最後に博士の研究では,自らの望むべき方向性の中で課題を見いだし,その手法自体を見いだし開発するとともに,課題の一般化と結果から新しい世界を生み出して行くことを重要視します.要するに最終的にどのレベルまで自分が行くかを決めたとき,そのアプローチが決まります.新たな道があっても結構ですが,大数の法則としてそれが基本だと思います.ただ自らの満足だけで研究することも可能ですが,博士の段階では自分の結果を学会等で発表すると同時にそのソサィエティの一員として活躍するすべも勉強する必要があります.教員の親掛かりの状態から自律して行く過程となります.
・研究室への配属  望むか望まざるかはわかりませんが,研究室配属が各人の成績で決まるようになりました.しかし,成績はその人の研究能力と一対一に対応するものでないことは自明です.一方で,良い成績を取ることを否定することは間違っています.その中で,あらゆる可能性を入学時から提示している中で,自らをコントロールして成績を収める能力は評価されるべきものです.でも,それが必ずしも良い研究成果を生むものではないということは何を意味しているのでしょうか?  研究室の選択の考え方を見直してみる必要があります.たとえば,A という学問分野に興味を持ったとします.その時,A に属するすべての研究室が同じなのかということです.上述したように,研究は幹で決めることもできますが,その後の枝葉の剪定ルールが納得できなければ,研究継続は困難と成ります.そういう手法論への共感は非常に重要と考えます.今後,研究室の配属を考えていかれる方は,ぜひその点を今一度問いかけてみて下さい.そこには人という要素が避けられません.

2.研究者であること 

・自らが研究者でありつづけること  最近,特にこの点に困難を感じるようになっています.一つに,国立大学が法人化され,予算を確保することに大学が躍起にならざるを得なくなっていることです.もちろん,博士課程学生のRA予算を確保し,優秀なRA, PD や若手教員を雇用することは重要です.しかし,それが競争的であるため,基礎的な立ち上げに時間が必要でも,現時点でお金のあまり必要がない研究が狭間に落ちてしまうことです.二つ目に,新しい分野を創成して行く時間的余裕がなくなってきていることです.これは,過去の資源を使い尽くしたときに終焉を迎えることを意味しています.大学として,法人化前の穏やかな研究スタイルと競争的な研究スタイルをどのように両立していくのかは,解決されていない課題です.それを忘れた今の日本の大学は,自分が学生の時から追い求めたものではありません.  このような状況の中で,指導者が研究者であることを楽しむ姿勢がなければ,若い人が研究者になりたいと思えなくなってしまいます.それを意識したとしても,日々追われてしまう現状は適切とは思えません.
・研究と論文数  研究者はその研究成果で評価されます.同様のテーマを同じ手法もしくはそれをアレンジした方法で少しずつ進めて行く・・・確かに論文はたくさん出ます.学会の論文誌も評価が固まった論文の拡張は容易に掲載します.一つが二つ,二つが四つといった図式です.しかしそれが研究でしょうか? 演習にすぎないのではないか! こういう考え方が自然選択により駆逐されていないことは,学会といえども真理を求める以外の価値観で動いているということです.一つのテーマに対して,+a, +b, +c といた追加手法を繰り返す研究もあります.それがその分野の研究論文のパターンと言われることもあります.何のパターンでしょうか? 論文掲載の最適化のパターンにすぎません.これも演習です.  論文掲載数は何を意味するのか? 同じことを繰り返して数が多い・・・そんな破廉恥なことを指導者が続けると結局はその学生は同じことを繰り返すことを最適と判断します.それで残る研究者が自然選択されるというのは,研究の世界ではあってはいけないことです.論文の数という悪魔が教育を低下させている例です.作業に落ちた時研究は終了です.  こんな当たり前のことを,言わなくては成らなくなっている世の中の動きは,私自身が研究者を続けることを困難に感じさせています.卒論,修論の研究内容で,論文誌に掲載されるものもあれば,まだ十分な理解に至らずに継続的な検討をするものがあります.いずれが優れているかという話に成りますが,決してどちらも遜色はありません.それぞれの研究にはフェーズがあります.その萌芽期と結実期では異なるのは当たり前で,結実を得た人はその萌芽を尊重し,結果をそれらの努力の産物として世に問うことになります.それは,研究室の研究活動の成果であるなら,どのフェーズも重要です.  論文数を多く確保する作業も重要ですが,それとは異なるペースで動く分野もあるのです.その違いを理解できないような風潮は,やはり正常とは言えません.引用数に関する議論も同様です.息の長い研究は,直近の論文数では議論できません.上に述べた原典は,それこそ評価されるべきものですが,そこまでさかのぼれる論文は短期には多くはありません.  とは言っても論文の数を問う今,研究者としての懐の広さが問われることに成ります.それを学生の時に醸成することが最も重要ではないかと思います.

おわりに 

本ページで述べたことは,あくまで京大電気系の一教員としての意見にすぎず,学科,専攻の意見ではありません.
 最後に,自らが間違いと考えた時にはすぐに出発点に戻って修正できるフレキシビリティを学び,その後に生かしていく姿勢を,電気電子工学という分野で学んでほしいと思います.それ一つ理解できないまま新しい分野や世界に飛び込んでも,同じことの繰り返しでいつも入り口まで行って,中を覗き見し,大変そうだからと言って帰ってくることを続けることにしかなりません.それでは決して真理との会話は成立しないのす.
 今回の書き直しは,研究室の卒業生S君の示唆によるものです.OB 会の折りに率直にこのページの内容の修正を進言してくれました.彼が学生のころに求めた研究室の姿を思うとき,その意見を率直に受けることが正しいと判断したものです.ここに御礼を申し上げます.

年初の挨拶2008年版

1.研究の開始 

さて,このページを読まれる方は,何がしかの興味を持って,研究室のホームページをネットサーフされたものと思います.
 毎年4月になると,京大電気系の4回生が研究室に配属されます.最近は,配属方式が変更になり,3月の間に学生各自の成績により,本人の意思を重視して決定する方式をとっています.だいたい研究室を1番から42番まで希望に従って順位付けできる自信は私にもありません.せいぜい10番目程度で,あとはどこでも結構という感じであろうと推察されます.絶対行きたくない研究室には42番をつけるというのが,最大限の抵抗の方法なのであろうと思います.その程度にしか研究内容の区別がつかないのが,4回生としてはあたりまえと思います.
 最近の配属された学生の方の行動に関して気になることがあります.たとえば,
  • 過去の研究成果に敬意を払わない.
  • ネットで検索する事を研究と勘違いして考えない.
  • 自分が所属するグループの価値観を全てと思い,公の場所でそれを主張する.
  • 科学的な議論ができるだけの語学力(日本語力)がない.英語は言うに及ばない.
  • 頭の中だけで考えて,それを文章に落とせない,あるいは黒板で説明できない.
などです.挙げれば切りはなく,単に年齢の行ったものの苦言にすぎなくなります.
 過去,少なくとも10年前までは対応が不要であった上記のような問題点に対して,研究室の研究システムが対応しているかというと,答えは否です.そのため,論文完成のための多くの時間は,実験データの読み方,計算の仕方,はては日本語の表現指導に費やされています.これが現実です.にも関わらず,妙に自信過剰になっている学生の存在は,ほんとうにこれからの日本の科学技術を支えて継承して行けるのかどうか大いに疑問です.その自信はどこからくるのかが疑問でなりません.いつの世も変わらない話かもしれませんが,少なくとも一般の科学技術への間違った理解と相まって,難しい将来が待っている様に思います.
 過去のページにも書いていますが,研究をはじめるに当たり,あるいは続けるに当たり,絶対に守ってほしい原則があります.以下にそれを書きます.

研究の原典をたいせつにする 

今の学生の最大の問題は,ネットで自由に情報が得られる様になった事により,研究の資料を集める事 とネットサーフィンの明確な違いがわかっていないように思われることです.ネットの情報は,だれの審査を受けたものでも,公の評価を受けたものでもありません.多くの指標はそのページへのアクセス数であって,決して内容の正しさ,内容の優劣でもありません.完全に一方的な公開ですから,うそや偽りでも十分に人を引きつけられることは明らかです.そのようなネット上の情報を,科学技術の発展のための基礎情報とする危険性を十分に理解し,本来の意味で正しい情報を得て行くためのアプローチを学んでほしいと思います.そのためには,研究の原典を求め,技術の流れとその拠り所とする原理,そして次にどのような原則を構築して行くべきかという学習をしてほしいと思います.そういう情報を集めるにはネットは最適なシステムです.
 面白い例があります.磁気浮上が制御なしには安定化できないということを証明したとされるイギリスのアーンショーの論文があります.それは,静電界に関する論文ですがそのアナロジーから磁界でも同様であるとされるものです.今ではホームページでその情報を得る事ができます.
http://en.wikipedia.org/wiki/Earnshaw's_theorem
さて,彼の論文
Earnshaw, S., On the nature of the molecular forces which regulate the constitution of the luminiferous ether., 1842, Trans. Camb. Phil. Soc., 7, pp 97-112.
が書かれた時代背景を思い出して下さい.この時代は,まだ真空中はエーテルが充たされてるということを前提にした議論がなされています.タイトルもそうです.ところがこのページにはどこにもその単語一つ出て来ない.過去にエーテルの存在が否定されているわけですから,それは無視するとしても,この論文自体は正しいのかといった議論があってしかるべきとなります.エーテルの存在の可否に関わらず,彼の理論が成立するわけですが,本当にこの論文の原典を読んだ人がどれだけいるのか,たとえば「アーンショーの定理が否定された」といったページを書き込んでいる人が本当に読みこなしているのか疑問があります.以前から過去の原典を読まずに論文を孫引きするという行為は横行しています.そういった行為が,過去の論文成果を間違えて伝えたり,あるいはその成果を間違って否定したりする原因となっています.場合によっては,その先見性を認めずに孫引きしたものが主張するなどといった,愚劣な行為にも繋がっています.必ず原典となる論文を読むこと,それが研究の開始に当たっての鉄則です..
 同じことの繰り返しになりますが,必ず技術・法則の原典に戻り,そこに含まれる創造者の思考の多様性を自分の意識で追体験し,研究を洗い直して行くこと それが研究者に求められることであり,それなくして研究者にはなれません.自分がその論文の内容を検証するに至った時,たとえば1990年の論文であれば,自分の理解が人類の歴史の1990年まで来たのだとよろこべる勉強をしてもらいたいと思います.

研究テーマ 

研究テーマに賎卑はありません.あるのは課題の深さです.学生ははやりのテーマに携わる事を得意げに話す事があります.それはテーマによって自らの価値を高めたいという気持ちの現れとして,よくあることです.しかし,だれもが先端を進め,自ら未開のフィールドに入って行ける力を持っている訳ではないのです.
 いつの世も「今時の学生」論があります.あえて言えば,今時の学生は,課題が常に目の前にあるものとして考え,それを効率よく(楽に早くミスが少なく)解くことを考える傾向が強い と言えます.しかも答えを求める.それは,受験勉強の弊害の最たるものです.人の理解能力のテストを行い,その順列をつける方法はそれで良いのですが,個人の能力の向上としてはそれでは不十分といえます.従って,研究室における研究指導は,この点を修正することに最もエネルギーをつかいます.自分が秀才と自負し自信のあるひと程,この指導が難しいということを書いておきます.
 卒業まで自らを修正できなかった人は多数居ます.すなわち,だれしも一足飛びに研究者になれるわけではなく,それぞれの年次に応じてすべきことがあります.卒業研究では,課題に対して提示された手法を用いてアプローチし,その課題を理解すると同時に手法の運用能力をつけます.修士の研究では,課題の妥当性を検証すると同時に,提示された複数の手法から客観的に適切な手法を選択し,その課題の理解と展開を図ります.最後に博士の研究では,自らの望むべき方向性の中で課題を見いだし,その手法自体を見いだし開発するとともに,課題の一般化と結果から新しい世界を生み出して行くことを重要視します.要するに最終的にどのレベルまで自分が行くかを決めたとき,そのアプローチが決まります.新たな道があっても結構ですが,大数の法則としてそれが基本だと思います.ただ自らの満足だけで研究することも可能ですが,博士の段階では自分の結果を学会等で発表すると同時にそのソサィエティの一員として活躍するすべも勉強する必要があります.教員の親掛かりの状態から自立して行く過程となります.
 研究テーマ それは上記のアプローチを学ぶために与えられた演習課題に過ぎないのです.問題はテーマのはやり廃りでも,分野でもありません.

2.研究者であること 

自らが研究者でありつづけること 

最近,特にこの点に困難を感じるようになっています.一つに,国立大学が法人化され,予算を確保することに大学が躍起にならざるを得なくなっていることです.もちろん,博士課程学生のRA予算を確保し,優秀なRA, PD や若手教員を雇用することは重要です.しかし,それが競争的であるため,基礎的な立ち上げに時間が必要でも,現時点でお金のあまり必要がない研究が狭間に落ちてしまうことです.二つ目に,新しい分野を創成して行く時間的余裕がなくなってきていることです.これは,過去の資源を使い尽くしたときに終焉を迎えることを意味しています.大学として,法人化前の穏やかな研究スタイルと競争的な研究スタイルをどのように両立していくのかは,解決されていない課題です.それを忘れた今の日本の大学は,自分が学生の時から追い求めたものではありません.
 このような状況の中で,指導者が研究者であることを楽しむ姿勢がなければ,若い人が研究者になりたいと思えなくなってしまいます.それを意識したとしても,日々追われてしまう現状は適切とは思えません.目新しい論文が出たとき,それを実験して楽しんでみるという姿勢,それが失われたとき,研究者を辞める時であろうと思います.
 学生の方が必要な事は,知識を与えてくれる環境と同時に,考える場を与え,それを試行する機会を与えてくれるPIと出会う事です.それを目指して,人を育てて行くことが研究者であることの意味と思います.学生が目標とする研究者で有り続ける事は不可能です.しかし,そうありたいと思い続けるのが研究者でもあります.

研究と論文数 

研究者はその研究成果で評価されます.同様のテーマを同じ手法もしくはそれをアレンジした方法で少しずつ進めて行く・・・確かに論文はたくさん出ます.学会の論文誌も評価が固まった論文の拡張は容易に掲載します.一つが二つ,二つが四つといった図式です.しかしそれが研究でしょうか? 演習にすぎないのではないか! こういう考え方が自然選択により駆逐されていないことは,学会といえども真理を求める以外の価値観で動いているということです.一つのテーマに対して,+a, +b, +c といた追加手法を繰り返す研究もあります.それがその分野の研究論文のパターンと言われることもあります.何のパターンでしょうか? 論文掲載の最適化のパターンにすぎません.これも演習です.
 論文掲載数は何を意味するのか? 同じことを繰り返して数が多い・・・そんな破廉恥なことを指導者が続けると結局はその学生は同じことを繰り返すことを最適と判断します.それで残る研究者が自然選択されるというのは,研究の世界ではあってはいけないことです.論文の数という悪魔が教育を低下させている例です.作業に落ちた時研究は終了です.
 こんな当たり前のことを,言わなくては成らなくなっている世の中の動きは,私自身が研究者を続けることを困難に感じさせています.卒論,修論の研究内容で,論文誌に掲載されるものもあれば,まだ十分な理解に至らずに継続的な検討をするものがあります.いずれが優れているかという話に成りますが,決してどちらも遜色はありません.それぞれの研究にはフェーズがあります.その萌芽期と結実期では異なるのは当たり前で,結実を得た人はその萌芽を尊重し,結果をそれらの努力の産物として世に問うことになります.それは,研究室の研究活動の成果であるなら,どのフェーズも重要です.
 論文数を多く確保する作業も重要ですが,それとは異なるペースで動く分野もあるのです.その違いを理解できないような風潮は,やはり正常とは言えません.引用数に関する議論も同様です.息の長い研究は,直近の論文数では議論できません.上に述べた原典は,それこそ評価されるべきものですが,そこまでさかのぼれる論文は短期には多くはありません.  とは言っても論文の数を問う今,研究者としての懐の広さが問われることに成ります.それを学生の時に醸成することが最も重要ではないかと思います.

おわりに 

本ページに書いたことは,あくまで一教員・研究者としての意見にすぎず,学科,専攻の意見ではありません.既に今年は研究室配属の希望票が提出され,成績も出そろいました.希望が叶えばそれに越した事はありません.かなわなかったとき,自分が成すべき事が何か,少し立ち止まって考えてみることが必要です.


年初の挨拶2009年版

1.研究室を選ぶこととその意味 

3回生もしくはM1が配属されたい講座・分野(研究室)を選択することの意味は,自らのメジャーとなる一つの専門分野を選択する事であることは言うまでもありません.しかしながら,工学の基礎としての全学共通科目,電気電子工学の専門科目を修得して来た学生の皆さんには,その一部をメジャーとする生き方が果たして正しいのでしょうか?そんな狭い世界を若い時点で選択してしまうことが本当の意味だとしたらそんなに悲しい事はありません.どの教員も言う様に,所詮その研究分野は入り口にすぎないということを理解してもらいたいと思います.
 自らが学ぶ事を忘れてしまったらその人はどこにいても同じですが,研究の入り口において,おそらく誰もが研究の課題を与えられます.それが自分の好きな科目に近い所で選んだとして,課題の背景,意義,価値,目的を自分で肉付け出来るかどうかです.そして,その課題を通じて研究のアプローチを学習したあとで,本当の研究が始まります.それは「何が問題なのか?」.これまで受験勉強,試験の勉強を続けて来た学生にとって,いちばん難しい問い:それは与えた課題において何が問題なのかを自ら導きだせるか が問われます.それは単にそう思うとか考えるといった感想ですまされるものではありません.論理的にあらゆる可能性を思考実験,数値計算,実験でつぶして,そして教員が与えた課題に対して,一体いま何が問題なのかを自ら導出できるようになること それが最も重要な問いかけだと思います.その問いかけがどの分野でなされるのであれば,これまでの勉強して来た知識から対応できて訓練に入れるか という側面から研究室を選ぶことが大切なのではないでしょうか? 皆さんが卒業し,大学院を修了し,研究者として一人前になった時,その研究室で学習して来たテーマは過去のものとなります.テーマの人気で選ぶのではなく,どの領域で訓練を受けるのが自らの方向性に合致しているかを考えて選んでもらいたいと思います.
 研究室で受ける訓練には自ずから方向性があります.4回生で受けた訓練は一生ベースとする拠り所になります.逆に大学院で研究室を変わると,その訓練が再度必要となります.異なる価値観の訓練を受けた人を研究者として確立させるには一部修正して再度訓練するということも必要になります.これは知識ではなく,体験として残るからです.それほど本質的な訓練であるという事を今一度考えて研究室の選択をされるべきであろうと思います.研究室を変わることは悪いことではなく,新たに新しい価値観を受け入れて最初からもう一度学ぶ気であれば何も問題はありません.問題が出るのは,最初に得た価値観だけを通して新しい環境の価値観を拒絶する時です.

2.研究室でまず求められること 

研究室見学に来られるたびに,「休みはどれだけありますか?」,「大学院の入試の勉強はできますか?」,「テーマは先輩と同じですか?」,「実験は忙しいですか?」・・・上げれば切りが有りませんが,聞かれる方もいい加減嫌になります.だから最初からすべてをありのままに伝える様に先輩の学生さんにはお願いしています.それは個人次第です.ネガティブキャンペーンを張って人気がないという事はその学年はそういう人の集団だと私は判断します.それで良いと思っています.自分に足りないものがあれば時間も惜しんで補充するのが学生として当然であり,余裕があれば人にも教え,さらに新しい事を試み,いつも全力で走るべきだと思います.適当に手を抜いてその場を凌ぐという態度は受け入れていません.ましてや何時から何時までだけ勉強するなどというサラリーマンの様な勉強で律することが出来る専門分野はありません.その分野でトップを走っている人に比べてそれ以上に勉強に集中しなければ,それ以上は有りません.だから,これらの質問は価値観に合うものではありませし,その程度で専門の主張できるような適正はありません.
 研究室は,一つの価値観で教員と学生が同じ方向のテーマに対する研究の訓練をする場です.学生の方を労力と考えて実験をさせるところではありません.その研究室の中で研究テーマに関して,教員と学生が共同研究者となりうるまでには,ある一定以上の経験と訓練が不可欠なのです.研究室はその場を提供しているにすぎません.教員も先輩も誰もが各自独立の研究テーマを走らせています.たとえば教員も新しい分野を基礎の基礎から立ち上げて行きます.各テーマを研究室という括りの中で議論し,世に問えるかどうかを磨いて行く場としています.その中で不充分であれば,他の研究室,他の大学,海外の研究者という外の世界でのポリッシュアップを図ります.それらを経た後,論文誌,学会での公表に値するかを決定していくプロセスを遂行する場となります.従いまして,教員も学生もそれぞれのテーマを尊重しながら,真摯にその内容を議論する場でなければなりません.何か美味しいものが無いかとか,いい結果だけを示しておけば良いとか,何か良いところだけを取れるものはないかといった,自分の事だけを考えた行動をする人がいれば,その時点で成立しない世界です.
 すなわち,研究室という括りの中では,教員も学生もそのテーマが成立する原典の精査から結果の完成までをさらけ出す事ができなければ,お互いに向上できないのです.それぞれが護りに入り,学生からの意見に教員が聞く耳を持たない,またそれに考え方を示さずに隠す,あるいはどちらかがどちらかを人足の様に使うといった場では望めないものです.意識して維持しなければ成立しない環境を作り上げなければなりません.
 研究室でなされることが何か分かったとき,皆さんが取るべき方法は,その研究室の教員,先輩と価値観を共有できるかどうかです.配属された後は,そのための学習が最も大切となります.少なくとも皆さんに教員や先輩が合わせることは絶対にありません.

3.研究室で学んでほしいこと 

どの研究室もそうですが,京都大学の研究室である以上,夫々の分野で重要なテーマに挑み,新たな分野を切り開く仕事を行って他に提示するのが当然です.分野に上下はありません.経済状況,政治,そして様々な動向で世の中がもてはやすテーマは変わります.そんなはやり廃りに関係なく,新しい分野を切り開く研究を推進することは並大抵ではありません.私の師は自分の研究に関して「流行った時には全てが終わっていた」と言い切ります.上に述べた様に,学部の専門科目の狭い範囲の学習ではそれらの分野の推進には何の役にも立ちません.電気電子工学の全ての分野の知識に加えて,物理,数学,そして化学,生物学等の知識を必要に応じて運用できる総合能力が必要なのです.そういうことを訓練の中で知っていった時,さらに電気電子工学の専門だけでは足りないことに気がついていきます.それは,電気電子工学が工学の全ての分野の基盤になり,さらにそれらを吸収して拡大しているからです.逆に他の分野も電気電子工学の知識無くして何も出来ない程になっています.そんな中で,電気電子工学の学生がもつ理解の重要なことは,電気電子工学としての電磁界理論,回路理論,量子力学,システム,エネルギー的な理解とその解析運用力です.物理からエネルギーまでの全てをその対象に応じて使い分け運用できると同時に,無次元化による一般化及びスケール則に基づく洞察によって,統括的に事象を理解できるようになることです.そういう能力が電気電子工学の学生として求められるものであり,狭い専門性は,多くの学生の就職に当たっては訓練の一課程としてしか見られていません.すなわち,訓練の分野そのものではないということを今一度述べておきます.残念ながら,多くの大学院生においてもそれが理解されていません.一方で,多くの教員においても総合的な力が重要とおもいつつも,即戦力を重視し,個別の知識に偏った人を輩出してしまっていることも事実です.その中で,学生はバランスを取って自らの能力を高めて行くための総合力を,基礎から高めてほしいというのが私の考えです.
 総合力には全てにおける基礎力が必要です.学部の専門科目で学習した事は,電気電子工学としての基礎です.それらの基礎の上にこれから研究に向けたさらに必要な知識と能力を築いて行かねばなりません.先輩との輪講,教員との輪講,そして研究室間での勉強会などを通じて,あらゆる情報を習得してもらいたいと思っています.「研究テーマ」はそのためのモチベーションの一つです.

4.学習することと研究することの違い 

「研究する」とは何を意味するのでしょうか? また「学習する」ということとの違いは何でしょうか? 残念ながら修士を終えた人の少なからずが分からないままに修了して行っています.学部生であればいざ知らず,わからないままに修士に進学し,そのまま終えてしまう現状,これは偏差値や学力とは別の次元の話です.
 要領の良さは成績を取るために重要かもしれません.そういう人ほど,研究に際してウェブやデータの調査だけで自分が研究した気になって,その内容の精査もせずに鵜呑みにして筋だけを作ろうとする傾向が見られます.そのような作業は研究には何の役にも立ちません.データを前にしても,そのデータの信憑性を問わずして,人の説明を借りて説明をつけて悦に入る・・・それは作業者の浅知恵です.何の学習もありません.これは研究以前の問題で,学習も出来ていません.
 先達の結果に敬意をはらいつつ,そのデータを自らのデータで再検討する作業から理論や過去の成果の理解が始まります.原典のデータを得る事ができずしてその理論には到りません.その作業が学習です.手を動かして理論計算し,時間をかけて計算もしくは実験する.その結果見えるものが原典の理論で説明できた時,その結果が学習出来たと言えます.もし,その中に説明できないデータがあったとき,皆さんはどういう行動をとるでしょうか? その行動の選択が研究者の将来を大きく決定します.そのとき,学習した全ての知識を当てはめて説明を試み,その中で説明がつかないときさらに学習を続ける,そしてまた説明を試みる・・・この作業は不毛です.しかしそれを意識下,無意識下で行える資質が,研究者として最も重要なものです.その時点の知識で何も得られない時,疑問点として意識しながら自らの引き出しにしまい,理解の結実の時を待ち続けることが出来る能力が必要となります.それは要領とはほど遠い能力です.なまじ,分かった様な解釈を与えて忘却することは禁忌なのです.人に説明をもとめ,もっともな説明を受けて納得してしまう事もあり得ますが,それでも理解できないときどうするかが重要です.
 研究できる能力とは,自己主張や人の受け売りをする能力,言うまでもなく政治的に組織や学会を運営する能力ではありません.あくまで科学的対象に対して,その疑問点に対して,可能なあらゆる手段を講じて理解を試み,可能性を全て洗いながらそのメカニズムや合理性を追求し,自らの試みていることが新たなことであることを証明することの出来る能力であると言えます.直感が優れている人に会う事があります.それは直感ではなく,その人が全ての能力で,その問題のポイントを他の誰よりも早く(瞬時に)それまでの知見の総合力から見いだす事ができる能力を高めているということであると言えます.それを証明して行く事がその人に課されます.できないときは,合理性の無い判断をしたと言われてもヤムを得ません.発見とは言えません.だから研究が必要なのです.だれもがその成果を,特別の知識や技量を経ずにたどることが出来る様になったとき,研究は完成します.
 しかし,学習は終わりません.またあらたな理解のために学習がその完成の時から始まります.

5.研究者とは? 

研究者とはどういう存在でしょうか? 私も明確に定義をすることはできませんが,身の回りにあった例を挙げてその答えとしたいと思います.
[例] 学生が日頃から検討している方程式の数値計算をその日も検討を試み,教授から依頼されたパラメータの地図を作る作業を行っていた.これまでのデータで概ねその概要が明らかとなり,そのほとんどが明らかとなった.現象が変化する分岐点集合を求める中で,曲線的に変化する部分と直線的に変化する部分が近づき,ある領域でつながる様に思われる.これをつなぐと話が単純であり,また図も美しく出来上がるように思われる.ただ,若干そこで曲率が異なり,少し違和感がある.このデータを実験で求めても,数値計算でも同様である.結果として,これらの分岐点集合をつなげて,データをつけて教授に報告し,論文としてまとめることになります.そして,このデータの問題を海外の研究者に指摘されることになります.そこに新しい誰も知らない現象が埋もれていました.
皆さんはこの例をどう感じますか? 訳が分からない説明かもしれませんが,実は私が学生の時に体験した大失敗の例です.私は配属された U 先生の研究室で,「カオス」の研究をすることを希望しました.Duffing方程式のカオスの発生のメカニズムには U 先生が知らないものはもう残っていないと言われていました.我々はそれを信じつつ,学習を兼ねて同形の方程式の解析を行い,カオスの発生・消滅を説明する分岐集合を何日も追いかけました.その作業の中で,カオスが消える領域の前後での分岐の様子が大きく異なる点が上の気になる点に含まれていました.それを見つけることが出来なかったのです.U 先生からは学会の公の場で,その新しい分岐を見つけられなかったことを叱責されることとなりました.私の責任の大きさを痛感させられた,また研究者としての自覚を求められた瞬間でした.
自らが研究者となっていなかった姿をそこに見ます.作業者として図を完成すること,それしか頭にありませんでした.新しいものはいつなんどき目の前に現れるか誰にも分かりません.そのための準備が全く出来ていませんでした.少なくとも学習ができていませんでした.それ以後,この世界で仕事をするには自分はまだ早いと理解し,その後8年近く手を出す事はありませんでした.次に手をつけたときに発表した結果は海外の研究者との共同研究でしたが,それが私の結果であることと,私が再びこの分野で仕事を始めたことを U 先生に伝えてくれたのは,先に我々が見つけられなかった結果を見つけて突き付けて来た同じ海外の研究者でした.
[例] これもまた自分の例です.あるとき,電話が有り,最近発表になった結果の説明をしてほしいから訪ねるとの話がありました.初めての経験でもあり,喜んで引き受けました.ある日,その研究者が訪ねて来た際に,求めに応じて懇切に説明をし,その面白さ,新規性を主張して自らをアピールしました.それから数ヶ月後,ある研究会でその研究者が同じ現象を自らの実験装置で見つけ,新しい現象として論文投稿していることを知る事になりました.あわてて論文誌の編集委員会にその内容の確認をしたところ,私の発表済みの論文を引用もせず,完全に無視した形で論文が書かれているというものでした.それから数ヶ月,編集委員会,査読者を交えたバトルが続きます.最終的にその論文は元のままでは採録にはなりませんでしたが,同時に私は人間不信になると同時に,その分野の研究から手を引く事になります.
「剽窃」ということばを知っておいて下さい.研究者の世界において,もっとも大切な態度は,他の研究者の成果を尊重し,そしてお互いに敬意を払って取り扱うと同時に,自らの成果を世に問い,疑問があれば公開の論文誌で議論を進めることです.上の例は,我が国の良く知られた研究者であってもこのような人が居るということです.そして,どの研究者も常にそういう状況にさらされるということです.最も気をつけないと行けないのは,研究室内での同様のトラブル,そして研究室間でのトラブルです.大学を越えたケースもあり得ます.そういうことが当たり前という環境でそだった人は同じ事をします.
研究者は,自らの先見性を主張し,それが認められることを第一義にします.その立場を守らなければ,自らの理解を深めて行く事はできません.だからこそ,真摯な,また率直な議論が可能な環境が重要なのです.研究室がその意味を失ったとき存在意義はありません.研究室が,お互いの考えを尊重し,さらに鵜の目鷹の目で美味しい結果がないかという様な浅ましい考えで研究を進める人を排除し,また教育し,そういう研究者を出さないようにすることが最も大事であると考えます.研究室では,結果が公開されていないだけに問題が大きくなります.それを破ったとき,研究者としては生命を失うという事を声を大にして言わねばなりません.

おわりに 

果たしてここに書いた事が,研究室を選ぶことを目的とした学生に対するものかと言われると,必ずしもそうではないと言えます.ある卒業生が過去の記述を見て,誰に対して書いているのですか? と問いかけた事がありました.おそらくそれらは自分に対して書いていたと言えます.要するに,私共の研究室で研究をしたいという人は,ここに書いた事に対して意識してほしいということです.堅苦しい事を書いていますが,その中でこそ研究の形式,レベル,そして共同研究者としての相互の敬意が生まれるものと思うからです.私は,自分の研究のアイデアを実行する作業者を求めているのではありません.共同研究者足りうる学生の方々に,訓練の後,各自の持ち味でアイデアを元にさらに発展した形の研究を進めてもらえ,それを自らの結果として世の中に問う強い意志を持った人と仕事がしたいと思っています.そして,私との共同研究を終えるとき,独立し,あるいは新しい世界でゼロから研究テーマを立ち上げる方法を学んで活躍してもらいたいと考えています.研究室は最初のステップにすぎません.けれどもそれが一生を決めるということも事実です.その意味は,研究分野の表面的な題目というものではありません.
 さて,2009 年度のメッセージはこれで終えます.読まれた方に何がしかの参考になれば幸いです.

年初の挨拶2010年版

2010年度版 

この研究室はどんな研究をしているのか,指導教員はどんな人かを知りたくてこのホームページを尋ねられたものと思います.そういう人に対して,冷や水を浴びせることになるかもしれませんが,私が考えている研究について述べます.その上で研究室を選択してください.

1.電気エネルギー分野(思い出話から現在,そして今後) 

私が学生のころからずっと,電力分野もしくは電気エネルギー分野はそれほど人気がある分野ではありませんでした.私自身,古くさい分野だと思っていましたし,講義でも何か分けのわからに定数をまじないの様に教えて,覚えろという講義ばかりで,そんなものは学問とも思えませんでした.研究対象となる電気機器も,最先端の科学につながるとは思えないようなローテクの機器で,たとえその現象が面白くても,とても勉強したいと思えるものではありませんでした.その結果と言ってもおそらく問題は無いと思いますが,我が国だけでなく世界の多くの大学でこの分野の研究者が居なくなり,研究室が消え,そして専攻が消えてしまいました.京都大学ではそれに対して,基礎研究の対象として維持して来たのが事実です.京都大学の電気系でも,教員の間でも電気エネルギー分野の不要論が有り,新しい分野への転換を図る圧力が高かかったのはさほど昔のことではありません.
本来,電気エネルギー分野は電気工学のあらゆる学問の基盤となるシステム分野です.学問は基礎と応用が絡み合うことにより止揚して新しい展開を生みます.ところが,電気エネルギー分野の研究は,もう既に大学の基礎研究が実験などを進めても現場の問題を解決することもなく,また応用されることも無く,単に基礎として知識を貯えるに留まらざるを得ない状況になってしまっていました.言い換えると,大学で学問的にいろいろな検討をしても,システムではなく企業として成熟してしまった電力業界が,大学の研究成果に重きを置くこと無く,さらには大学に現場の研究を押し付けることで,大学の本来のあり方を損ねてしまった結果,学問として発展できず,分野が衰退したと言っても言い過ぎではありません.一方で,大学でも,昔からの学問大系に固執して,一向に新しい考えを吸収しなくなった研究者が,業界との関係維持だけを続けてしまったのも事実です.
ところがどうでしょう.アメリカ合衆国のオバマ大統領がその選挙キャンペーンの過程で,エネルギー政策を一つの目玉とし,ノーベル物理学者である Steven Chu をブレーンとして新しい政策提案から科学技術を動かす壮大なキャンペーンをはり,そして実際の技術分野を動かし,京都議定書では後ろ向きであったアメリカ合衆国に新しい技術概念の武器を与えてしまったのです.と,とたんにその勢いは科学研究費の地図を書き換え,世界を巻き込んで大きな変革の流れを与えてしまいました.そして,世界中の大学で,もとももと電力の教育を受けたことの無い物理学者,他分野の工学者が,猫も杓子も「エネルギー」「パワー」「グリッド」と声を荒げて動き回る様になってしまいました.日本も同様です.あげくの果ては,他大学の情報や通信工学科といった学科で電力分野の教員を募集する様にまでなってしまったのです.これは,お金の世界が大学の学問の世界の構造に反映してしまう,非常に悲しい話です.(現在新聞を賑わしているグリーンやエコの記述でも,学問とは関係ない業界の勢力争いのコメントや,政治ばかりで,本当の学問としての正直な評価がありません.御用学者の未来の予言は,信じられる未来ではありません.)大学は,短期的な世の中のはやりすたりと関係なく,必要な知識を蓄積し,基礎的な学問を必ず教育していく組織であらねばなりません.それを忘れてしまった大学の見識の無さと体たらくは,あるべくして起きたと思います.すなわち,学問と分野を混同している,応用分野と基幹となる学問を混同しているということです.元来,電気エネルギー分野は電気電子工学の応用分野です.確かに高度経済成長期は多くの学問分野を生み出す源泉となりました.たとえばその中からも物性への学問的深化から半導体分野が生まれて巣立って行ったのです.したがって,応用は必要性を失った時に消えて行くものであり,同時にそれに頼った学問は無くなってしまいます.だから,本当の電気エネルギーの基礎学問とはなにかと言われると何もないのです.では,どうあるべきであったかと考えると,もし分野を維持するなら電気エネルギー分野もその時々の新しい学問,技術を取り入得て常に進歩すべきであったのです.それにもかかわらず,究極のアナログネットワークの世界として残ってしまった:工学のガラパゴスの様な分野になってしまっていたのです.その価値に気づいたのが先のアメリカ合衆国の動向ではないでしょうか? 器用に効率の良いシステムを作っていた日本のこの分野のからは想像だにしない,大きな流れとなってしまいました.ビジネスは定常状態では成り立ちません.そのポテンシャルのグラディエントが大きければ大きい程,資本が動きチャンスが作られます.その意味で見事に成功したわけです.
通信は1990年代にアナログ電話からディジタル電話に大変身を遂げました.それが携帯電話の大普及に拍車をかけ,コンピュータネットワークを取り込んで,音声通信と情報通信は一体化した経緯を振り返ってみれば,つぎに起こることは容易に想像できます.それは,現実の物理層に情報ネットワークが入り込み,その伝送および制御を実現する世界に展開することです.その最初が,電気エネルギーというインフラの大改造につながるのは至って自然ではないでしょうか?なぜなら,すでにコンピュータネットワークや通信ネットワークは電気エネルギーネットワークと共存しているからです.
今後,おそらく10年は電気エネルギー分野,情報通信分野 (ICT) の統合が一つの大きな流れになることは避けられません.このはやりで動くことが大学がやることではありません.これまで通りの研究の上で,必要に応じてこれらの分野に貢献し,新しい概念形成を行って行くことが我々に課された使命だと思えば良いと思います.電気エネルギー分野は全ての電気電子工学の分野からの応用分野なのです.だから,垣根を取り去って,物性も通信もシステムも,必要に応じて展開すれば良いと思います.そういう柔軟性を持つ,あるいは生かせるのが,若いこれから勉強しようとする人たちなのです.既成の学問を宗教の様に信じてはいけません.また権威の言う言葉は裏を読まねばなりません.それができるための勉強を続けてください.

2.研究室の道筋 

大学の工学分野における研究の一つの形は,応用分野を主眼とせず,その根本となる学問を確立・発展させ,それを適用する分野を時代とともに作り替えて行くことです.我々の研究室は非線形動力学・科学を学問の柱にしています.その応用先が電力変換技術,電気エネルギーシステム,MEMSなどです.さらにそれらを昇華して再度数理に戻します.あまりにも違う分野を並べていると思われる方も多いでしょうが,私に取っては応用分野は時々のものに過ぎないことから,至極あたりまえなのです.入り口は非線形動力学なのです.もちろん,応用分野からいきなり入る人もいます.しかしその中で根本の考え方をおろそかにしても結局は表面的な勉強にしかなりません.必ず非線形の基礎としての勉強をしてもらいます.それが新しい学問,応用分野へのフレキシビリティを生むと信じているからです.
研究室に配属された方の多くは,早く研究の題目を与えてもらいたいと思っています.それは落語会のお題です.気持ちはわかります.たとえば親に会った時に「何の研究をしているのか?」と尋ねられたとき,題目で言い切ることができるからです.しかし,そういうことは本当に研究の訓練をしたあとでなければ何の意味も有りません.お題をもらうまでは必至に要求して来ても.その後の勉強をするわけでもなければ,それほど逆に怖いことは無いということを就職の面接などで経験される方も多い様です.学問,研究は付け焼き刃では何の役にも立ちません.学問の系譜を踏まえ,それらを地道に学習した後に,自らのテーマの問題点を再構築できたとき初めて人に対して示すことができるものになるということを知ってもらいたいと思っています.
研究に向かうための近道は,興味を持てる分野の勉強を寝食を忘れて実行することです.締め切りを決められてする試験勉強ではたどり着けない世界です.なぜなら,どこまでやってもこれで良いという勉強ではないからです.昨年ある番組で『みずから限界を決めてしまったときその人はそれ以上の力を出さず,適当に力配分をしてしまう』という話を聞きました.その通りだと思います.学問でも同じで,試験に通る勉強を繰り返すと,単位数分の1の力配分で勉強する習い性ができてしまうものです.疑問があっても,また興味が有ってもそこに集中して勉強することに価値を認められなくなってしまうのです.新しい研究をしたければしたいほど,力配分などせずに今の全てに全力で走らなければならないのです.大学入試は,上に述べた配分を最適化した人が制します.それを否定はしませんが,入り口に過ぎないことをほとんどの人が理解できていないのです.研究の世界は持てる能力を配分せず,全力を出し切って走り続け,先頭に飛び出した人だけが分野を作ることができるのだということを知っておいてください.そのためには,遊びも次に来たタイミングで伸びるためには不可欠です.
ただ自分だけで思索を続けても,人類の科学史を自分が再発見できるはずはありません.従って,良い環境に出会わなければなりません.良い環境とは,自分が出会う人・課題・時です.そんな偶然に近い出会いがその後の研究生活の生き方を決めてしまいます.それほど重要な出会いとなります.卒業,修了後に技術者,研究者を続ける人に取って研究分野はどんどん変わりますが,研究に対して受けた考え方,指導は一生変わらないケースがほとんどです.それほど,アプローチの手法を決めてしまうものなのです.その中で自分が目標とする人をみつけた時,道が自ずから決まって行きます.
皆さんは,これからの京都大学の研究の前線にでて,新しい分野を作っていく人です.その気概と自信に,知識を獲得する地道な力をつけて挑んでいくとき,道は開けます.いたるところに未開拓,未知の研究が埋め込まれているからです.それが新しい研究への手がかりとなります.

3.さまざまな疑問 

寺田寅彦が身の回りの現象にその背後のメカニズムを見た時代,それはまだ江戸時代から西洋の科学技術を輸入して我が国に定着させるための作業を続けていた時代です.その時,西洋と同じ科学の基礎を学習した訳ではない彼らが,如何にして先端科学まで達することができたかを考えたとき,その爆発力のすごさを感じます.たかだか科学技術の基本ルールと使い方を知っただけの人間が,どうしてそこまでいけるのか?多くの疑問があります.元になった思考は,日本の従来の勉学であったにちがいありません.
現在でも多くの国で十分な書籍も無く,科学教育を受ける機会も無い世界があります.にも関わらず彼らが,携帯や通信衛星などの最先端の科学技術を使い,インターネットに接し,その膨大な知識に一瞬で触れることができるようになってしまいました.いきなり大容量の情報のメモリーを処理能力の無い演算装置が得たことにも等しく,まずはルールから学習をはじめる,使いこなして行くことになります.その過程が,従来の常識を超える方法になるかもしれないことを予想しなければなりません.我が国では,人間のコピーを作るのではなく,自ら創造する力をもつための教育的試みを受けたゆとり教育世代が現れました.彼らの能力を従来の教育の尺度から測った限り,それは不十分な学力とレッテルを貼られることになります.しかし,その判断できめつけたとき,この世代が社会から葬り去られてしまいます.そんな村八分のような教育をして良いはずはありません.彼ら彼女らをどのように教育して行くかは,重要な課題であり,大学に与えられた宿題ではないかと考えています.
こういったことを考えるとき,知識として方法論を教えて行く今の大学の教育が適切なものであるかどうか疑問を感じています.従来の知識の蓄積を教えることは,同質の技術者,後継者を作って行くときは効率的な手法です.しかし,このような教育から本当に今の閉塞を打開する新しい技術や世界が生まれてくるのでしょうか? 本来科学は,その根源に疑問があり,そして工夫から技術が生まれ,さらに新たな世界を創造するものです.確かに基礎は弱いかもしれません.しかしきちんとした基礎に乗っ取り,データや情報から類型を導きだし,あらかじめ与えられた知識に当てはめるのではなく,技術を再発見し,その結果既存の技術であっても自ら導きだすことができればそれは次へのステップにつながります.そういう人を育てることにシフトすることが必要なのではないか といった思い・・・これをどのように反映するか思い悩んでいます.
自らが研究者を続けて行くことができるエネルギー源は「疑問」です.なぜ,何が,どうして,どのように・・・これらを大切にしたいと思っています.加えて,表現論をおろそかにしないことが必要です.最後に,反対意見の人と真剣に対峙することを厭わないことが不可欠です.

4.求めた環境,学生,研究者:そしてこれから 

私が京都大学で研究室を運営する様になって今年で10年になります.本当にあっと言うまでした.この間に自分が何をやり,なにを伝えて,何を残して来たのか,顧み反省することも必要です.私が目指したのは,どの分野でも自ら切り開くことができる人を育てることでした.研究室が半講座のころに配属された学生の方々は,本当に苦労されたと思います.その方々が現在,それぞれの世界で中心的な存在になりつつあることを嬉しく思っています.彼らの多くは,ほとんど研究とは関係のない仕事をされています.肝心なことは,分野や手法ではなく,一緒に進めた研究の共有体験であり,テーマを一緒に練り直し,議論してアプローチし,自らの知識の範囲を超えた(むしろ弱いところで)工夫させることであったように思います.その中で,ぶれない目標設定を私が保ち,皆さんに達成感を感じて頂くことができたことが重要な点であったと思っています.たとえその結果が間違ったものであってもそれを検証することの重要性を重視して来ました.
研究室に人が集まる様になり,スタッフも増えていった時に行ったことは,異なる価値観の人を常に私の周りに置くことでした.それは,自分の限界を超えて仕事をすることを自らに課すると同時に,相手にも同様に求め,常に緊張感の中で仕事をすることでした.当然ながら多くの軋轢が生まれ,学生の方も左右されることがありました.私自身がぶれ悩み,失敗しました.自分と同じ環境で過ごした人や後輩は,結局は同質の人たちです.その中で過ごすことは非常に心地よいことです.しかし,大学の研究を進めるという観点で,これは間違っています.あえて,研究室のヒストリーが異なり,異なる考え方の教育を受けた人を混ぜることは,研究者としては大きなリスクを背負いますが,両者の持てる能力が止揚したとき,得られるものは大きいと信じて行いました.
次に行ったことは,学生に留学生と共に研究する環境を作り上げることでした.日本人だけの同質な学生集団で行われることは,お互いに説明の無いまま,雰囲気ですべてを決めて行くことです.研究も言わなくても伝わるといった道の世界の様な話が生じます.少なくとも科学技術に携わる人たちを育てるためには,異なる文化の人,価値観の異なる人,そして年齢,性別を混ぜ,言葉をかわして議論することが必須となります.しかし,自然にこのようなことができるはずはありません.そこで人を選んで,留学生,滞在研究者として受け入れ,研究室の学生と一緒に育てて行くことを設定しました.ちょうど桂に移転する時期でもあり,多くの問題はありましたが,研究室の一体感を高めることができたと思います.ただ,この間受け入れた留学生,研究者が中国に限定されていたことがあり,共通言語が日本語と中国語という課題を残しました.
これらの経験を経て,私自身が海外に共同研究者を求める方針を打ち出しました.そのために,武者修行の様に毎年海外の研究者の所に行って研究成果の講演をする,国際会議でこれはと思える人を捜すという地道な作業を進め,本当の意味で信頼できる何人かの共同研究者を得ることができました.ただ,私からすると全て年齢が下の人を選びました.私が多くの分野を亘って来たことで,研究のレベルが数年後の彼らと丁度釣り合うということと,彼らが今後私の研究室の学生が尋ねて行ったり滞在して共同研究者になるとき,私が一線を退いても頼ることが出来る様にと考えたものです.また,彼らの学生をも研究室で受け入れ,私の共同研究者として遇することを続けました.このような地道な活動の結果,複数の学生,スタッフが彼らのサポートを受けて在外研究を行うことが当たり前の研究室になりました.
現在,大学の専攻,研究科を超えた研究活動を進めています.これは,我々の研究を国内の蛸壷の中の蛸の趣味にせず,つねに国内外で厳しい評価にさらされるようにするためです.現在もその活動中です.特に,応用分野で企業,他大学等々との連携をすすめることも,学生の皆さんの視野を広げることができるようにすると同時に,外部の厳しい評価の目を受けて,税金で研究を続けることを意図しています.
今後,これらの全ての過程を経て,漸く世界でも非線形分野の研究室として知られ認められる様になったと思っています.それぞれの過程で過ごされた学生の方から見れば,だいぶ変わってしまったと思われています.現にそのような声を聞いています.しかし,大学,研究室は常に成長しなければならないものだということを理解してもらいたいと思います.それぞれが居た時代を顧みてなつかしくすばらしいと思う気持ちは認めます.しかしその時と場所は,研究室の成長の過程の1ページにすぎないのです.明日も同じであればその研究室はすでに成長を止めた所と思わざるを得ません.大きな果実は大きな環境の変化を経る過程で生まれると信じています.だから,少なくとも現在は,我々の研究室で研究することが世界の第一線の仕事になっているということを意識してもらえるものに,名実共になっているということを自信を持って言えます.
一方で,研究室の共同研究に携わった人が独り立ちしたとき,研究室のテーマから離れることを希望しています.もちろん学位で携わったテーマは深化させてほしいのはやまやまですが,それは大学だけの論理です.新しい場所で,新しいことを,新しい人と始めてほしいのです.せっかくのチャンスを過去に固執することで失うことは往々にしてあり,それを人は順応性の欠如,過去の研究への固執,協調性のなさなどといくらでも悪く評価します.得たものはある研究の創造とアプローチで十分です.修了した人がお互いに共食いをしないように,全ての学生に異なるテーマを設定しているのですから,他に何かおいしいテーマは無いかなどと振り向いたりきょろきょろ見るひまがあったら,自分が今任されているテーマを深化させてほしいのです.私は,自ら新しく課題を創出できる人を育ててきたつもりだからです.スタッフも所属した学生の方にもこの点を強く希望して来ましたし,これからも希望します.(卒業生の方が読まれたら,今一度気を引き締めてもらいたいこと思っています.)もう一度書けば,自分でゼロから研究を立ち上げて行くことができる力をつけることが研究室の研究指導です.
これから,研究室に加わる人に希望することは,研究のオリジナリティ,プライオリティを尊重し,独り立ちするまでは素直に学習する姿勢を保つことです.そして,必ず自分の意志でここから巣立って行くことです.これまでは,その中だけで成長を疑似体験できる環境を造ってきました.しかし,もうそのお膳立ての時代は終わったと思います.自分が望めば研究室,専攻,研究科やりたいことは何でもできるはずです.私自信も,もう一度ゼロから新しい研究を築いて行きたいと切に願っています.だからこそ,私の研究活動をも尊重し,切磋琢磨して独り立ちして行く研究者・技術者を目指す人に加わってもらいたいと思っています.そして,研究室を離れた先輩たちには学生の活動をエンカレッジし,陰に日向にサポートしてもらいたいと思っています.決して自分が彼らの前に立つのではなく!

5.おわりに 

私が目指して来た研究室は,"At the Helm"(研究室運営マニュアル)に書かれているようなアメフト式の職域分業を重視したアメリカの実験系研究室の一見まともに見える構築論では求められないものです.少なくとも,我々の研究室は,研究テーマはPIが設定し,それを個人の能力を高めるためにもちいつつ,新しい方向性を与えます.研究推進の個人の能力を高める中で,さらに研究の深化を求め,課題設定能力をつけてもらいます.これから研究室に加わる人たちは,これまでのヒストリーの先で活躍する人です.アプローチに全く新しいことはおそらくありません.それを意識して頂きくことが重要であると思います.研究室の運営は机上の空論ではありません.誰一人の教育研究に失敗は無かったとは言えませんが,反面も含め結果的にはそうなっていることを嬉しく思っています.
(補遺)研究には早すぎると言うことがあります.どんな研究にもそれが認められるための周囲の知識の高まりが必要です.「あなたの研究は少し早すぎた」と言われることこそ,研究者としての喜びではないですか?